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■ 花見に思うこと | 2017. 4.14 |
昔、昭和30年代40年代の花見は田舎の小学校の運動会なみの賑わいであった。 公園や城址に爛漫と咲き誇る桜の木の下で昼日中にゴザを広げて弁当、それも重箱に入れた豪勢な料理を肴に酒を酌み交わす。 昔からの日本の春の風物・・・であった。 ・・・けれども最近ではこんな感じの宴はあまり見かけなくなった。 今年は特に雨ばかり降って、寒くてそれどころではない。 大して花見もせぬウチに雨風で散ってしまいそうである。 葉桜の花見も結構オツなものと思えるが、昨今は若者も酒を飲まない人が増えてさらに飲酒文化も喫煙文化と同じく薄皮が剥がれるように少しずつ少しずつ廃れてきているように見える。 ことカラダ、健康のことを考えると喫煙と同じように飲酒もかなり良くないらしいことが立証されてきている。 「酒は百薬の長」と言ってもそれは量的に極めて僅少、即ち焼酎・ウイスキーレベルで小さなキャップ一杯程度が「薬」であるらしい。 酔っ払うほど飲むなんて全くNGなのである。 それでもって人口の減少とかもあり件の運動会にしろお花見にしろ、今は淋しいものである。 酔って歌って踊って騒いで・・・なんていうのも時々は健康長寿によろしかろうと思えるけれども何せ今は世の中が豊かになって皆さん毎日のように晩酌と称してお酒を恒常的に飲んでおられるようで(愛酒家に限るけれど)、わざわざ花見とかの「大義」がなくても「飲める」のであるから「花見」という風習も少しずつ忘れられてしまったかのように思える。 4月の半ば過ぎになって「あっ、そう言えば咲いていたなあ・・・」なんて感じで全くもって風流ではなくなった時代ではある。 ネット、スマホ、テレビ、クルマ、スナック、クラブ、ビジネス・・・カタカナにやられてしまった日本人の伝統文化、風習・・・。 少し寂しいあるネ。 個人的には花見と言うとごく内面的には悲しみを帯びた、どちらかというと暗い思い出があって、これはあまりにも微妙な問題で語り尽せないが素晴らしい思い出と重なり合うようにそれを失った喪失の痛みとか愛する人との死別とか生別とかが混じり合って一種独特の悲哀感情に導かれる桜の季節なのである。 桜の花びらを見つめていると、色々な考えや思い出が湧き起こって来て、理由もなく自然に目に涙があふれてくる。 我ながら不思議な感覚である。 これは夜桜では起こらない。 心の中を色々と探索してみても複雑すぎてうまく分析できないでいる。 春特有の心理状態なのかも知れない。 多くの人が春には心の調子が良くないとおっしゃる。 気候とは少し暖かくなって薄着になって暖房も不要になり一年で最も過ごしやすい良季。 それは5月の到来が間近であるのにである。 悩ましい春。 葉桜の緑も青々と、それは青春の苦悩の再訪なのかも知れない。 少しく衰えを感じる性の衝動も完全に消えたわけではなく、それは淡いだけにくすぶると逆に厄介な気もする。 何故かというに爆発的な発散ができなくなった・・・という意味で悩ましさを増したように思える。 いつもながらお気に入りの歌、 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ 春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ 後者の漢詩もであるが、名作というのはいつ書いても聴いても詠んでも何らかの癒やしをくれるものである。 少なくとも春の花(桜)を愛でるのにこれらの歌や詩を詠じながらであると心の中に小さくはない心地よい波紋を生じせしめるのである。 自然と芸術と教養は切っても切れないカンケーにあるのだ。 多分。 ありがとうございました M田朋玖 |