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| ■ 懐旧 | 2026. 2. 7 |
「心のよろこび」の時、そこには必ず或る種の「懐かしさ」を感じるのは私だけなのであろうか。 これは感情よりも感覚の問題とも思えるが、全ての「快」の状態にこの「懐旧」という情感が心に存するのを初めて自覚したのは小学校の時であった。 その頃に3つ年下の弟を連れて「懐かしさ」を求め山野を「さまよった」という記憶がある。 そして70歳を越えて味わう「よろこび」の感情・感覚が殆んど全て懐旧的であることをあらためて自覚している。 常に過去にしか「快」を感じえない性分なのかとも考える。 ・・・それで結果的に本や雑誌や写真、果てはクルマやバイクまでも古い所有物を「手放せ」なくなってしまった。 ・・・使い慣れた所有品・・・それは古びた洋服であり、クルマであり、オートバイであり、さまざまの日用品である。 新しい何かを否定している訳ではないが、たとえば電気自動車やAIなどに飛びつこうとは決してないと思わない、考えない。 しかしながら昔が良かったかと言うとそういう訳でもない。 「今が大好き」「今が永遠」につづけば良いと心の底から願っている。 「今ここ」と「懐旧」。 この本来相容れない筈の心の状態が自分の心の中で不思議に同居して或る種の強烈な安心感を得ている。 「懐かしさ」を今に「現実化」しようと「企んでいる」フシも感じる。 昔の「良い時」「素晴らしい時」を今ここに持ち出して加工し、心の中で楽しむというコトをシンプルに「心の作業」として行っているという気もする。 いずれにしても極めて残酷なコトに時間はドンドン過ぎて老と死が近づいているのが厳然たる現実だ。 そうした現実から逃避する為の「心の安全装置」として「懐旧」という心の「方向性」があるような気がする。 ありがとうございました M田朋玖 | |

