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■ キモチイイ | 2025. 9.30 |
たまたま「人待ち」の要ありビルの屋上にたたずんでいると、思わず知らず涼しい風が頬を撫でしっかりと秋の訪れを告げていた。 9月19日、金曜日。 午後8時30分。 田舎町の夜の灯がちらちらときらめいて、すっかり夜の帳が降りても雲の反射光が街全体をほのかに照らし月の無い夜空を濃青色に染めている。 秋はいくらか気分がメランコリーだ。 つらつらと人生の来し方を思う時、それらの総てが深い悲しみの色を帯びていることに気づかされる。 過去ハッキリと鬼籍に入った恋人が2人はいる。 殆んど急死に近い人もあり病死にしても病悩期間が短く、早世と呼べるほど若い死。 それらと同時に生じた別離の数々が胸をチクチクと刺す。 最後は誰しもが自分の肉体と現世での生活と別れなければならない時が必ず訪れる。 それらの痛みや苦しみから逃れようと多くの人はもがく。 そうして殆んどの人が一種のゴマカシめいた数々の活動に明け暮れる。 こんなことを考える自分の心ですら多くの生きている人間と同様、毎日をそのこと・・・即ち「死」を・・・思わずに生きている。 それらのことが妙に愚かしく哀れで物悲しい。 世の中の偉い人達は皆一様に「魂」の永遠の不死不滅を説く。 確かにそうとは思う。 理屈として諒解もしている。 それでもこの現世への未練と執着は容易には取れない。 イヤ、逆にこの未練と執着が生きる「ヨスガ」。 大きな動機づけになっていると個人的には感じる。 人生の儚さこそその本態と分かっていても現世での「生きている喜び」があまりにも強烈で、日常的過ぎてどうしても執着してしまう。 勿論、現世で生きていくのがひどく辛くて「死」を選ぶ人も世の中には数多くおられる。 痛ましいハナシだ。 ところで日常の喜びをリストアップすると例えばこんな感じだ。 朝起きて「大きく伸び」をする。 その時に「サイコー」「あーキモチイイ」と言葉に出す。 起きてトイレに行き更に「キモチイイ」と言う。 給水機から冷たい水を飲む。 この時「うまい」「おいしい」と言う。 そして軽くストレッチ。 この時もキモチイイと言う。 そして寝衣(スウェットの上下)のままランニング。 いくらか息が上がるが何とか走れる。 この時も「サイコー」に「キモチイイ」と言う。 次にシャワーを浴びる。 お湯がキモチイイ。 「ありがたい」と思う。 時々「油」が切れてお湯が出ない時があるからだ。 神棚のお水を換えて祝詞を上げる。 「ありがとうございます」 神棚に向かって何度も述べる。 身支度をして歯を磨いて、また水を500mlほど飲んで「瞑想する」。 これがまたキモチイイ。 それが終わると大学ノートに向かう。 その日の目標や仕事の段取りや予定を書き込む。 その時は「文字を書く」喜びをしっかりと味わう。 階下に降りてスタッフの前で朝礼をする。 これをいくらかユーモアや笑い顔を交えながら「朝礼をする」ようにしている。 だいたい未遂に終わる。 スタッフの協力しながら患者さんを次々と診て行く。 カルテに万年筆で字を書くのも楽しい。 「良くなりました」「ありがとうございます」「調子良いです」 こう謂われるとさらに嬉しい。 治りの悪い人の幾人かの処方内容、治療法、薬品を考える。 これも楽しい。 愛用の高級時計を見る。 先日購入したバングルを見る。 診察室のデスクの上の花に話しかける。 「キレイダネ」「大好き」「愛してる」・・・とこんな感じなので毎日が楽しくて仕方ない。 ありがとうございました M田朋玖 |