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■ 知覧に行って・・・ | 2024.10.16 |
久々に鹿児島の知覧に行った。 終戦前に特攻隊の基地があった町だ。 今まで5〜6回は訪れている。 その特攻平和記念館にはいつになく来館者が多い。 館内に飾られた展示物・・・写真や手紙や飛行機を中心としたさまざまな遺品を鑑賞するのにいくらか工夫を要するほどだった。 令和6年10月6日の同館訪問は最初に訪れた時と同様かそれ以上の感動を与えた。 涙がいっぱい出た。 何回か入館すると「慣れ」が生じるのか殆んど何の感興も催さなかったコトもある。 不思議だ。 今回は自民党総裁選が行われたばかり。 最も「右寄り」とされた高市早苗議員の立候補表明のスピーチが感動的だった。 彼女は総理総裁になっても靖国参拝を「する」とキッパリ述べておられた。 その上でスピーチの後半では映画「あの花が咲く丘で君とまた出会えたら」・・・この作品は現代の女子高生がタイムスリップして一人の特攻隊員との恋に落ちる・・・を引用して私達の現在の平和と繁栄がかつての戦争で捧げられた尊い生命に支えられたモノで、私達もまた一身を懸けて国の未来、将来の子供達へめいっぱい成長発展させて明るい豊かな日本国を残さなければならない云々・・・というような意味合いのお話だった。 件の映画を観て高市氏のスピーチを真剣に聴けば自然に特攻平和祈念館に行きたくなるであろうと思われる。 今回の訪館では手紙(遺書)を読んで遺影写真を観るというコトをいつもより丹念にしたと思う。 そうしていると何故か自然に目頭が熱くなり落涙する。 或る種の霊的迫力を持ったみずみずしく若い生身の人間の真摯で神聖な言葉・・・それはたとえば神の言葉、魂の叫び・・・であったことはあらためて気づかされた。 一方で死刑囚や自殺者の最後の様子や言葉を書きつづった書物を強引にひき比べてみる。 それは「何の為に・・・」という言葉に帰結するように思える。 自ら死を選ぶという点で特攻も自殺も同じだ。 しかしながら特攻の「死」にみられる或る種の神々しさ、神聖さ、華麗さ・・・涙を誘う残された言葉の数々。 特攻を前にした若い隊員達の極めてやすらかで穏やかな態度やふるまいを記録として知るにつけ、益々普通の自殺との差異を強く感じさせられる。 時に社会に対する「恨みつらみ」である「何のための死」・・・。 多くの特攻隊員の死はとても華々しく、潔く、壮烈で荘厳で美しい。 そこには日本人の持つ強い美意識を感じる。 勇壮、勇猛果敢。 勇ましさ・・・人間の最も尊ぶべき自分の生命を投げうって祖国・日本国の未来・・・つまり自分の死んだ後の平和と繁栄を願っての神聖を極めた自己犠牲的な行為が日本人、いや世界中の人々の心を打たない筈がない。 「自己犠牲」 どうやら人間という生き物は多数の幸福のために愛する人々を守る為に自己を犠牲にする行動に感動し賛美する傾向があるようだ。 世間に対して悪事をなし犯罪者として法律で裁かれ「死刑」にされる・・・ことを対極に置けば分かりやすい。 多くイヤイヤながら「死」という刑罰を与えられた人間と、多く自ら志願して特攻隊に属し命令によって出撃していった隊員達の死を前にして態度がいかにも平常心であり、その上残された人々に対する思いやりと愛と謝意に満ちているのを知ると本当に何故なんだろうと考える。 それらの全てが美しく輝かしいのは何故なのだろうと考える。 それらを残された未来の人々(私達)は心を込めて顕彰するというのもこれまた極めて自然なことに思える。 亡くなられた特攻隊員達への感謝と哀悼の心を捧げる。 ・・・所謂、靖国参拝という行為を行うのに誰に遠慮がいるものか。 「美」という文字は「羊が大きい」と書く。 大きい羊は集団が外敵に襲われた時に自らの肉体を獲物として捧げ集団を守るらしい。 知覧に行って彼ら・・・美しい自己犠牲の若者達に心打たれ、圧倒された多くの鑑賞者の顔に感動の泣き顔を催させるのは当然ながら不思議とも思える。 「武士道とは死ぬここと見つけたり」 「葉隠」の著者、山本常朝の言葉である。 武士の死は永遠に生きる手段であるらしい。 自らの死に場所、死に時を求めて毎日を生きていると言っても過言ではない。 そうしてその死の機会は突然に現出する。 その為に武士達は常に身辺を清らかに保ち、いつも毅然としていた。 我々現代を生きる男達の生き方はそれらの武士(もののふ)の日常と比べ、いかなる類に堕ちたのであろうか。 彼ら特攻隊員達に恥じないように最低でも世の為人の為に自らの生命を使おうではないか・・・と強く考える。 今さらに特攻隊員にはなれないならば彼らに準ずるくらいの働きをお国の為にしようではないか。 ところで「知覧」・・・「散らん」・・・語呂が気になる。 そう言えば「桜」をかける言葉が遺言に多い。 ありがとうございました M田朋玖 |