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■ 決定的瞬間 | 2024. 9.20 |
こういう表題だとカメラ・写真という物品や作品がすぐに思い浮かぶ。 写真機は今や全国民と言えるほど多くの人々がその携帯している電話(スマートファン等)として所持していて、あらゆる時間や場所など時宜に応じて使用されているようだ。 中には強烈な誤解を生じさせるような画像・映像等も撮られていて実に悩ましい。 勿論、その逆もあって決定的証拠とかになったりもするが今は画像処理でどんな映像も加工できるらしく、その「絵」の真実性、信憑性においてその証拠的価値が多分に揺らいでいるようだ。 それでも決定的瞬間を捉えた画像にはそれ相応の感動的、事件的価値があるかも知れない。 その美しさ、リアリティーに圧倒的な迫真性があるのであれば・・・。 それこそ「決定的瞬間」として。 いずれにしても人生における決定的瞬間という類はそれ程多くはなくてその個人の感覚にもよるが概ね4〜5回くらいなのではないだろうか。 人生の岐路に立った時、大きな決断をする。 様々な出逢いの瞬間はそれぞれ決定的な瞬間だったかも知れない。 ・・・けれど「それ」として認識されることは少ないように思う。 あの日あの時あの場所でめぐり逢っていなければ・・・なんて考えると胸がドキドキするくらい大きな喜びや感謝の念を持つと同時に深い悔恨の情が胸底から湧き上がって来て脳芯を疼かせることもある。 結果としての決定的瞬間とそこに至る端緒となった出逢いの決定的瞬間は個人的には後者を忘れがちになる。 それは結果に意識を向け過ぎるからで、実際現実には物語の「始まり」である「出逢い」の方に重きを置くべきかもしれない。 良くも悪くも色々な結果としての決定的瞬間は喜びに満ちた類であれば意識的にその原因を記憶の中に探るであろうし、逆にそれが深い悲しみや悲劇的結末だったりすれば「記憶の大波のはるか彼方に追いやって消し去ろうとするのは人間の「性」なのではないだろうか。 いずれにしろ決定的瞬間が映像に残されているのであればこれは大変に貴重なモノであると言える。 ・・・と言うよりそれに気づいた瞬間に個人の人生のすべての物語がミステリー小説の「謎解き」のような類としてあらためて認識されるのではないかと思える。 とてもとても貴重なのだ。 決定的瞬間の記憶や「記録」というモノは・・・。 どうしてこんな簡単な問題が解けなかったのだろう。 「決定的瞬間」という言葉で数々の人生の物語(他社も含めて)を紐解くと極めて興味深い真実に行きあたる。 それはやはり出逢いも別れもほんのささいな心の葛藤やいさかいに端を発していて、日頃の心がけの重大さをあらためて実感として認識するのである。 一方で勿論、素晴らしい喜び事を結果として経験し、それを映像や文字に記録できてそれを「決定的瞬間」としれ「再体験」できるのであればまさしく「幸せ」な人間と言えるかも知れない。 自分自身の経験における「決定的瞬間」を細かく辿って行く作業は実に心楽しい。 その心の作業そのものが紛れもなく決定的瞬間と言えるかも知れない。 「あなたの決定的瞬間はどんなモノでしょうか」。 この問いかけに対しての回答には恐らくどんな人も思わず落涙するほどの感情の「揺れ」を経験するかも知れない。 「あの日、あの時、あの瞬間、あの人に出逢ってなければ今の自分はいなかった」と言える人物が数人はいる。 それは皆女性で、最初の一人は実の母親である。 ひどく「やさぐれ」ていた浪人時代に自分のボロアパートに祖父と共にやって来た母親が自分の前で初めて「涙を流した」。 結果として大学受験を請け負い、幸い合格し自然的に医者になった。 あの母親の涙は筆者にとって「決定的瞬間」であった。 そうして一回目と二回目の結婚、それはオートバイに乗っていた時でその配偶者を発見した瞬間を今でも鮮明に思い出せる決定的瞬間だ。 ありがとうございました M田朋玖 |