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■ たそがれ | 2024. 8.31 |
夏のたそがれはとても美しい。 まっ赤な茜雲が西の空で刻々と色を変えて行き、どんどん空気が青染される。 日没と同時に夜の帳が降り切って本格的な夕闇が深まる。 筆者はこの青々としたたそがれの色が好きでわざわざ室内の灯りを消して自宅のベランダでうつり行く青色の変化を眺める・・・ということをする。 かつてアルコールを飲んでいた時にはビールを片手にスマートフォンの音楽をイヤフォンで聴きながら「たそがれ」を楽しんでいたのを思い出す。 「黄昏」 漢字だとこう書くようだ。 黄色(太陽)が昏くなる・・・ということか?!。 「たそがれ清兵衛」という藤沢周平の時代小説があって映画化もされた。 監督・山田洋次、主演・真田広之。 結構楽しめる作品であった。 この場合の「たそがれ」はどちらかというと悪い意味で、所謂「たそがれている」人物(主人公)を描いている。 妻に先立たれ、幼い娘と老母を養う為に内職をしている貧乏サムライ。 映画ではないが年齢についても老いをしみじみと感じさせる人物・・・特に男性の場合に・・・たそがれ時(老年期)との表現もあったりしてあまり好ましくない形容詞として使われることも多い。 一方でロマンチックなイメージとしては歌謡曲などの歌詞やタイトルによく使用される言葉でもある。 大昔の歌手、水原弘の「黄昏のビギン」。 知人がよく歌わされていて自然に憶えてしまった。 昔の単純なメロディーラインが多く覚えやすい。 夕暮れから夜にかけての甘くロマンチックな心象を老寂を感じさせるネガティブなイメージとで多分にフクザツな言葉でもある。 筆者の場合には年齢的に「たそがれ」そのもので、殆んど完全に老境に達している訳であるが、普段の日常生活には特に何の支障もなく過ごしている。 健康というモノは実に有難い。 日昇から日没まで仕事や趣味、遊び事で過ごして迎える「たそがれ」も夏から秋にかけてはいくらか寂し気ではある。 早くなった「夕暮れ」の時間はたそがれ時を早く昏くさせ、一日を短く感じさせる。 人生のたそがれ時も1日、1週間や1ヶ月や1年の短さを強く感じさせる。 実際に日没の風景を西海岸で眺めていると殆んど真円の光球が高速で地平線の彼方に消えてゆくのを確認できる。 或る意味、実にオソロシイ光景だ。 何故かと言うに時間の流れのあまりの速さあらためて実感させられるからで太陽が殆んど天頂にある時、その動きがいくらか緩慢に見えるのに比してそのあまりの「素早さ」(太陽の)に心から圧倒されてしまう。 季節のうつろい、日々の日めくりカレンダーの早まわしの連続を見せつけられる・・・実際の光景がこの「たそがれ」時の西の空の色調の変化だ。 それは実にスピード感あふれる秒単位の変化なのだ。 「たそがれ時」なんてあっという間に過ぎてしまう。 それは人生における老境のように・・・。 普段そんなことばかり考えている訳ではないが、自分の腕時計の分針ですらその素早い動きに驚嘆させられる。 一方で面白くない研修会などでの終わりの5分の針の進みの何と遅いことよ。 カズオ・イシグロのノーベル賞受賞作品(?)「日の名残り」はまさしくたそがれゆくイギリスの没落貴族の様をモノ悲しく美しく芸術的に描いているが、そのタイトルどおり時代の「たそがれ」そのものだ。 あまりに「たそがれ」ないように工夫努力をしているが、うまくいっているかどうか不明だ。 他の人に聞くしかないがあらたまって自分の「たそがれ」具合を聞いても大概の人は「本当のコト」は言ってくれまい。 それでしみじみと鏡を見たりスマホで自撮りをして眺めたりしているが、そこにはまだ「死の影」は見えないものの老境のそれはまざまざと見せてもらえるのでいささか自虐的、自暴自棄的、自嘲的に「たそがれジジイ」などを秘かに自称して喜んでいる。 このような心の作業は単なる言葉遊びのようで多分に精神を安心させる。 やっぱり「ありのままの自分」を全面的に受容することは自らの精神操作に好もしいものなのだ。 ついでに「老いを楽しむ」と長生きできるらしい。 人生のたそがれ時も実際の時間のたそがれ時もそのスピード感に耐える必要があると同時にその感覚を遅くさせる為に今のところ最も有効な行為が「瞑想」であることを知った。 「たそがれ時」を楽しむ為に日々の瞑想習慣はとても大切だと思える。 ありがとうございました M田朋玖 |