コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 無2024. 2.10

正月もさわやかに過ぎ、来月初旬には早くも「立春」だ。
2月4日の節分は春の到来初日となる。
青春とか思春期という言葉があるように「春」は何かと幼く悩ましく狂おしい。
何かしら心躍る、或いは浮き立つような気分の高揚もあると同時に自らの抑え難い性の欲望を持て余し苦悶苦闘する青少年の姿も想い起される季節でもある。
新芽時とも呼称するのか?
梅の花が匂やかにその可憐な蕾を枯れ木のような小枝の上で完封にチラチラと揺れながらうずかせている。

冬ももう終わりか。
若葉の頃、初夏を過ぎ灼熱の盛夏。
彼は散る秋を過ぎ再びコートを羽織る冬を迎える。
年月を数えるより時間をより「少ない」と感じる。
近頃は自らの未来を思う時、そこには強面の厳父のように「老い」と「死」が待ち受ける。
春待つ時季にはあまりにも不似合いな「想念」であり「言葉」であり「文章」であるが、もう既に「夏」や「来冬」を想起している自分が怖い。

アタマの中ではもう人生の最終局面を想起しているようだ。
それも極く自然に・・・。
オソロシイことだ・・・と思う。
違う自分が「今を楽しめ」と言っている。
「今ここにいろ」と言っている。
そうして言葉にどうしても馴染めない自分が厳然と在る。
何故だろうと考える。

そもそも思考というモノがそうなのだ・・・と考える。
思考は今のモノではない。
そう考えている人が多いと思うが・・・。
極秒単位でいうと「純粋な今」に時間というモノは存在できない。
時間も今の最新の研究では「無」だそうだ。
確かによ〜く考えてみれば時間そのものが存在にとって必要不可欠であるけれども、最高そのものもこれまたその「存在」そのものに関わるとしても「時間」を「空間」も突き詰めれば「無」であり、したがって結論的には「存在」も無であることになる。

宇宙の存在も究極的には「無」なのではないか。
無限に広がる空間と時間で構成される宇(時間)宙(空間)。
これらのことに思いや考えを馳せると奇妙な心の安心感を得る。
人間の個人の「生きる意味」や煩悶や苦悩など宇宙全体から見れば実のところ全く「取るに足らない」ことなのだと思える。

純粋に「人生を楽しみ」のであれば上記のような思考の流れや展開は勿論或る種の虚無感をもたらすかも知れない。
その虚無感こそ心の秘宝の通過ポイントでこの際人間はしっかりと味わうべきと思える。
何故なら人間社会のさまざまに渦巻く欲望やさかしらな理論理屈を吹き飛ばすほどの強力な「真理」であるし、それを具現化し体現している人間という個人が素晴らしく輝かしいオーラと魅力をたたえた悟道の人としてもしかしたら存在できるかも知れないからだ。

春はスプリング。
飛び跳ねるという意味だ。
それは噴泉(スプリング)のように心を軽くすること。
衣類を軽く整えること、ゆったりとした態度やふるまいや言葉遣いを心がけることだ。
宇宙の法則。
それはエネルギー不変の法則、因果応報の法則、重力の法則、振り子の法則などなど。
すべてにわたった「無」にインテグレイトされるように見える。
そう、総ては「無に帰そう」とする強力なエネルギーだ。
その為に自らを安全と平和と生命や運命のエネルギーを保全する為に「無」を意識することだ。

あらゆる物質、精神、言葉、想念・・・それらのエネルギーの源はやはり「無」しかないのではないだろうか・・・と最近考えている。

ありがとうございました
M田朋玖



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