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■ 「映画」という体験 | 2024. 2. 4 |
契約している映画配信会社NETFLIXで久々に映画を鑑賞した。 8月27日土曜日の午後だ。 映画を観る喜びのひとつは出演している男女優のファッションや生活様式・・・特にクルマが出てくるとそれがどんなポンコツであれ高級車であれひどく楽しくなる。 最近は出演者のファッションがそろいもそろってジーンズにパーカーにスニーカーという類。 これは筆者も好むところであるが折角ならオシャレをして外出したいと思うので実際にはこれらのイデタチでいることは少ない。 映画の社会的影響力は相対的に下がっているとは思うが、大スターのトム・クルーズの「トップガン」などは第1回作品などMA−1やカワサキのオートバイなどに社会現象となるほど「売れた」らしい。 筆者の少年時代(中学生の頃)にはスティーブ・マックイーンの「ブリット」という作品で主人公の刑事が茶色のデザートブーツにタートルネック、ツイードのジャケットというファッションが実際に米国の刑事さん達の間で流行したらしい。 それにしても最近は映画をメッキリ観なくなった。 筆者はアルコールをたしなまないが「水を飲みながらカラオケを歌う」というのを最大のストレス解消を兼ねた趣味としている。 それで「バスケの練習」も行かず「映画」や「読書」の趣味にここ一年ばかり「粗」になっている。 それでも映画が与えてくれる精神的なエネルギーの強大さは昔と比べても少しも減衰したとは思えない。 ・・・という訳で最近とにかく、敢えて、頑張って・・・映画を観ている。 それは依然と比べて激減しているモノのNetflixでの自宅鑑賞のみならず劇場で話題作だけでもチェックするようにしている。 (このコラムはR5年8月に書き始めた作だがR6年1月下旬に続きを書いている。いくらかの時差をご配慮のうえ読んでいただければ幸甚である。) ところで「映画を観ない」と断言しておられる作詞家で、今や音楽プロデューサーの大御所・秋元康氏の雑誌記事を読んだ時に確かに映画などより自分自身の日常の方がより一層「映画的」であることに気がついた。 特徴的・・・自分の日常…なのは常に「カッコウをつける」ということで多分に自己満足的でナルシスティックであっても「自分」というタイトル(仮題)の映画の主人公のように「監督」として「主演男優」として自分を「ディレクト」して「アクト」するということを意識してみる。 ・・・常にではないが・・・。 この「意識」というのは結構大切で、自意識ならぬ「自己意識」と表現して良いように使っている。 「自分のコト」を俯瞰的に眺めて「操作する」という「意識」は気分的に「悪くない」と感じる。 自己をコントロールする、マネジメントすると言うのは精神的にも肉体的にも心地良いコトなのではないだろうか。 何しろ自分の肉体と精神(脳)をこの超精巧なコンピューター(脳)付きの運動器(肉体)を操るということが快感でない筈がない・・・と思えるのである。 けれどもそのことをとても「素晴らしい」ことと強く「有難がり」「嬉しがり」「歓喜」と「感謝」で行為している人は少ない。 あろうことかこの極めて尊い自分という存在に対してブツブツと文句を言ったり色々な不平不満を言ったりし、ついでに「酷使」している人の何と多いことか。 人間に限らず生物というモノはその備えられた生存本能の為に危機や危険に対して「寄り」敏感であるようにつくられている。 その為に「生」についても「快」よりも「不快」、「喜び」よりも「苦しみ」「悲しみ」「怒り」などネガティブな事柄や出来事に強く反応してしまうのだ。 話を戻すが「映画」によって自分の心に何が生じるかというとその主人公の人間達の苦しみや危機や苦難や歓喜・・・など諸々の体験に感情移入することで我が事のように偽体験をする。 そして「我に返る」。 瞬間的に覚醒するのだ。 かなり貴重な体験をしても映画を観終わった途端に再び元の日常に無意識に戻ろうとするのだ。 何らかの「生きる勇気」、何かしらの「生活上のアイデア」「生き方の参考書」にするのではないかと考えている。 レンタルビデオで「業」を成した「ツタヤ」の創業者・増田宗昭は断言している。 「人生の参考書」は「映画」と「本」しかないと筆者の「映画」というモノへの考え方の価値づけはこの一言で表現していると考えている。 ありがとうございました M田朋玖 |