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■ 人生の時間 | 2024. 1.30 |
眠っている時間、仕事をしている時間で人生の時間の2/3は取られる。 一日の自由時間などほんの数時間なのでホントはすごく限られているのに時間潰し的、ヒマ潰し的に人生の大切な時間を過ごしている人が多い。 自分を含めて他人事ながらパチンコやゲーム(トランプ、種々のギャンブル、花札その他のカード遊び全般)にせっせといそしんでいる人々を見るにつけ、いくらか侮蔑的に見ていたフシがあるが最近は何故かその「時間潰し」が好きになってしまった。 あれほど嫌悪していたゴルフや飲酒や宴会や各種の集まりごとなども近頃はかなり楽しめているほどではないけれど深に怖じ気が薄れている自分がいて驚いている。 「学ぶこと」「稼ぐこと」「貯めること」「育てること」・・・などから解放されると「何の為に生きるか」などという高所大所のエラソーな見地に立たなくても浪費とか消費という類の行動を金銭のみならず時間においてさえそれ(浪費やその類)にあまりためらいを感じなくなった。 明らかに無駄遣いを思えること(昔は・・・)を平気でしている自分がいるだけでなく、近頃は敢えて「無駄遣い」を求めているといった風でもある。 ヤレヤレいったい何が起こったのであろうとしみじみと考えてみるに、やはり「人生の時間」の残りを「意識」しているからだと思える・・・「死」・・・理由のある恐怖から無意識的に逃れようとしているのではないかと自己分析している。 「死」即ち人生の終わりの自覚によって生じる心理というとまず「出来るだけしたくないことをしない」「好きだと思えることをしていたい」「楽しいことだけしていたい」などといういかにも世間的には不埒な、或いは不届きな欲望にまどわされて自分の存在全部を賭して何が好きなモノや事柄なのかを確認してそれらを選択して「挑みたい」という欲求が無性に生まれてきた。 そういうコトを毎日しているという自覚があってこの頃は本当にこの「人生の時間」を何に使うのか、自分の持っている僅かな金銭をいったい何に使うかと考えた時に瞬間的に途方に暮れるほど「何も無い」という感覚に陥入していた。 この感覚は医師の国家試験に合格して研修医を終え開業医になって大した「仕事」も無く、そのうえ独身で毎日本も読まず映画も見ず(田舎の為に映画館が無かった、勿論ビデオも無かった)ボーっとまさに無聊をかこっていた時代に逆戻りした感覚がある。 それは20代後半で或る意味何かしら強い郷愁を感じる。 ついては70歳になって1ヶ月も経たないウチにオートバイのスピード違反で覆面パトカーに捕まるという鈍臭い始末を演じた・・・これは若い時には常に免許証の点数の殆ど無い状態が常態化していたので、まああまりにもその当時とよく似てるなあとあらためて思えた次第でもある。 それで試しに自分の「人生の時間」を何に使っているのかと考えて、とりあえずいかに列記してみた。 @ 仕事:これは意外に楽しい、面白い。 検査や治療がうまくいくとひどくクライアントに感謝される。 社会や人々に貢献している実感を得られる。 A 睡眠:睡眠薬を服んで全てを忘れて深い眠りに入るのはこれまた深い喜びである。 人間に「睡眠欲求がある」というのを最近知った。 B 読書:雑誌や絵画を含め全ての書物という類の与える喜びというのはまた格別である。 厭きることを知らない。 勿論、歴史物や推理小説は言うに及ばず読書中の快楽には何物にも代えられない何かがある。 不思議だ。 C 映画:これは面白い映画に限るが昔の映画の大量のコレクションだけでも充分満足できる。 中でも「傑作映画」というのは実に有難い。 C クルマやバイク:これらの運転にはこれまたこたえられない喜びがある。 自分の思うままに自由に道路のあるところを移動できるなんてとてつもなく素晴らしく素敵なコトであると思う。 飛行機やグライダーなどもっと面白いのでは・・・と昔は思っていたが今ではオートバイで充分だと確信している(飛行機の免許を持っている岩城滉一の言もある)。 E スポーツ:バスケやテニス、筋トレ(ジム)などに親しんでいるが、これまたすごく楽しい。 カラダを自由に動かせる喜びを何歳まで出来るかと時々考えるが、とりあえず「出来る」ウチにこれらを楽しもうと思う。 @〜E以外にも「旅行」というのがあるが、これには面倒臭さが邪魔して特に興味が湧かない・・・というよりとにかく地元を離れるのがイヤだ。 何よりも@〜Eを楽しめないというのが「旅行」の難点だ。 Bの読書は出来るが・・・。 とにかく自分の家で過ごすのが好きなのである。 ありがとうございました M田朋玖 |