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■ 絶望と愛と・・・ | 2023.12. 7 |
某月某日、夕。 東京銀座の小料理屋で若いクラブのママと食事をすることになった・ こういう機会が我が人生におとずれるとは想像もしなかったが、その日の前月の或る夜に店がひけた深夜カラオケスナックで件のママと「銀座の恋の物語」をデュエットで歌ったりして何かしら淡い「つながり」でもあるようで少しく心躍る気持ちもあった。 件の小料理屋は銀座7丁目の雑多な飲食店の入った雑居ビルの一画にあって、二人でエレベーターで昇って入店した。 その数十分前。 場所が分からず件のママにスマホで連絡すると店のクルマなのか巨大な国産高級車で現れて、それから降り立ち食事する店に徒歩で向かった。 料理はコースではなくアラカルト。 多分、時間の関係もあるのだろう。 美しい着物をその長身にまとい、夕暮れの銀座を歩くとは・・・とチョッピリ贅沢な気分に浸る。 何となく静かで落ち着いた雰囲気で食事を済ませると、そのまま午後8時頃には件のお店に入った。 店はそこそこに混み合っていて気分もグングン上り調子と行きたいところだが、何しろアルコールを飲まないし元々トークも上手くない・・・。 それで1時間も経たずに席を立ったが心は妙に満足している。 何ということはない。 ほんのささやかな「日常」がそこにあるだけだ。 それらの「日常」がいくらか冒険的に交錯したとしてもそれらが劇的な「出逢い」を生み出すとも思えない。 どこかしら諦め切った自分が令和2年の11月から起こっていて「それ」を披露する勇気は今は無いので「書く」ことはしないが、それは大きな「愛の喪失」体験と述べるにとどめよう。 二度そんなコト(出逢い)を経験することはあるまいという強い諦観が心の底に確信めいてあって以来、魂の「亡霊」として生きているという感覚がある。 それで何の望みもしない銀座のクラブという・・・かつて特別な場所と思っていた「禁断の桃源郷」がそれほどでもなかったという失望・・・イヤ絶望と言えるかも知れない・・・を味わう羽目に至ったという次第である。 コト出逢いについては銀座という呼称の花街(?)の・・・大都会東京・・・のそれが実感として「大したことはない」という現実を突きつけられて世の中の希望・・・即ち素晴らしい(ただ単に席巻するという程度でも)出逢いというモノが、ただお金を使ったり手間をかけたりして「起こる」モノではなく奇跡と呼べるほどの確率で生じる。 宇宙の星々の何億分の一の衝突に近い類をあらためて思えてしまったのだ。 「出逢い」は求めて生じるものではないらしい。 何かしら特別な「天の采配」によってしか起こらない「奇跡」の代表例なのだ・・・と最近しみじみと感得している。 絶望と奇跡とほんの微かな希望を心にたずさえ何とか生きているという態で毎日の「日常」を過ごしている。 「愛の喪失」という類ではなくてもそれは具体的には単に「欲望の対象」の喪失に違いないとは確信しているがこれはいくら大枚をはたいても、イヤ現実的にはそれは可能かもしれないけれど・・・とにかくこの何とも言えない身を剥がれるような「喪失感」を何度も味あわされるとは考えもしなかったが事故の魂の為には必要だったのかも知れず、周囲の人々にはいくらかその「心の痛み」が好印象を与えているようで、勘違いかも知れないが今は異様に男女共によく「モテる」。 これは純粋に「自惚れ」を排して得られた出会った人々の見かけの印象らに確かに写真に撮られたプロフィールには「神々しい」とか「慈愛に満ちた」という言葉で表現される顔と表情をしている。 実のところ「やるせない孤独」と「愛欲に飢えている」だけなのに・・・個人的には思う。 そしてひどく淋しそうに見える。 表情的には。 自分的には。 ありがとうございました M田朋玖 |