コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 生き方2023.10.25

月が「熟れ」たり「枯れ」たりしながら1ヶ月がしみじみと消えてゆく。
二度と帰ってこない今日という日。
この日々の活動が「生活」であり、その生きざまが「生き方」となり、それらが或る程度の「量」を懸案した時「人生」などと呼ぶ。
生まれたての赤子や子供に対しては「人生」などという言葉を使うことはない。

あらためて語るべくもなく「人生」という言葉に惑わされて「立派」な人間になる「人に認められ尊敬される人間」になる・・・などと考えたことは無い。
けれどもモノの本によればそういうコト、つまり「名誉」とか「毀誉」とかに拘って生きることは金銭や我利を追求するより「マシである」とあるのでそうした人間を目指して生きるのも悪くないかもなどと考えたりもする。

いずれにしろ「風に吹かれる青空にポッカリと浮かび流れる雲」のように飄々と生きるのが理想であっても、あらかじめ「そのように」と心の底で決めなければ外的要因、即ち運命やら人間関係やらとんでもなく「場当たり的で行き当たりばったりな人生」になるかも知れず、とりあえずはまっとうな仕事や学問や訓練などと称される人間の活動の中でも「生産的」と称される類にいそしんでいないと家事などから解放された男性を中心とした人間の生き方は相当に哲学的に洗練された「人物」でないと結構「見苦しい」モノになるのではないかと考えられる。
「見苦しい」とか「見苦しくない」かなどと「生き方の基準」については異論もあると思うが個人的にはかなり「重く」て、それらを「美意識」と呼ぶならそれを自らの「生き方」のとりあえずの基準にしておくというのは「賢明な判断」と思える。
どんなに落ちぶれても貧窮の極みにあっても「美しく」生きられるのではないかいくらかノーテンキに考えている。
イヤ逆に「貧すれば鈍する」の諺があるも現代では「富すれば鈍する」というタイプが世間で大手を振って跋扈しているように思える。
筆者の勘違いであろうか。

「今だけ金だけ自分だけ」という言葉も世間では流通しているらしい。
「後世を見据え世の為人の為のために自らの持てる能力を最大限に発揮して生きる」・・・というのがやはり人間の生き方として至福のモノなのではないだろうか。
毎日の生活に追われ、お金を追い、自分や会社の利益を追いかける生き方であっても先述した言葉を深く肚底に沈めて生きれば結果として「美しい」生き方になるのではないだろうか。

イザという時にはそれこそ肚の底が割れて人から後ろ指をさされる・・・もしかしてたとえそうであっても自らの矜持の中で決して「醜くない」という自覚があればそれで良いのだ。
なので、自分の中の客観視座」がうまく機能してくれるコトを祈るばかりだ。
主として「美意識」をフィルターにした「視座」。
これが人間の人間たる最後の砦かも知れないと思う。(以前のコラムにも書いたことだが・・・)
「美」の基準というのはファッションや生活様式、マナー、礼儀作法において一見多種多様に見えるが「人間としての・・・」という接頭語をつければアッという間に単純で純粋になる。
それは愛や思いやりがあるかないか、神仏や人を敬う心があるかどうか、感謝の気持ちを理性的に保持しているかなど割りとシンプルな「原則」に行き着くように思える。
結論的に述べるなら結局はその人間の生き方のついてはいかにも「ありきたり」ではあるが、「人間」としての美意識のありように準じて存するようであり、はたまた例え「世の為人の為に尽力した偉大な人物」であっても人柄として人格としてひどく傲慢で身勝手で思いやりのかけらもなく、その所作は愛など微塵も感じられない「人間」であるならば「生き方」としてひどく「見苦しい」モノになったりはしないか・・・と考える。
まあそういう人間の出現確率は低いが・・・。

市井の小市民として平々凡々たる人生を送っていても家族や周囲の人々(職場や友人達)と喜びや悲しみを共有し愛と優しさを包まれた、温かく情の篤い人間として生きればどんな偉大な人も敵わない立派な「生き方」になると考えている。

ありがとうございました
M田朋久



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