コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 少年時代2023. 8.16

井上陽水の名曲のタイトルにある「少年時代」。
よく出来た歌だ。
「ノスタルジー」というのは同じシンガーソングライターの来生たかおのテーマでもあるが楽しかった時代を想起させる歌にはやはり心に染みる。

さて筆者の少年時代、特に小学校時代の記憶はあまりにもおぼろげでハッキリした類がない。
弟と一緒に夏休み中、川に泳ぎに行ったりとか学校の近くの山に「巣」を作って遊んだりとか小学生のくせに良く真や家出をしたりとか・・・楽しさ半分、苦しさ半分。
時々どこにも逃げ場の無い絶望を味わっていた。
唯一の救いは雑誌や本。
今でも大好きだ。
これらのもたらしてくれる広々としたファンタジーの世界は傷ついた少年の心にひとつの大いなる光明となって深い孤独感と寂寥を少なからず癒やしてくれた。
筆者にとって「少年時代」とは「傷み」の時代である。

今もこの癖が抜けない。
ストレス解消の殆んどが少年時代のそれに近づいて来て、さらに殊更に「本と雑誌」にのめり込んでいくのを感じる。
バイクもバスケもクルマも夜の店も、即ち大人の遊びゴトを現時点であまり心惹かれていない。
70歳を前にしてこんな心境になるとは若い時に想像もしなかったが或る種の予感はあった。
心置きなく「それが楽しめる」状態になって、何を一番に優先させるかとなるとやはり少年時代の夢の実現であろう。
そしてそれも「小学校時代」のそれを。

シュリーマンという考古学者はエジプトだかアラビアだかの遺跡の発掘に少年時代心を奪われてその為の資金作りに事業を起こし「金持ち」になり「発掘の仕事」にその金、生涯をかけた。
この事実も少年時代の夢がいかに強烈であるかを物語っている。
団塊ジュニアの世代の「ガンダム」のフィギュア収集もこのような意味でよく理解できる。

かくして筆者も少年時代の夢を当時の想像以上のレベルで現実化させている訳で、幸福といえば幸福である。
この夢の為に協力してくれた多くの人々には深い感謝の念を抱かさせる。
このような文脈からやはり少年時代の夢や、もしかして復讐心や強い願望、怨恨や嫉妬心が原動力になった人生を形成するらしいので子供達の教育環境、社会環境にはもっと慎重に心を配りたいと思えるが・・・現実的には少年や少女をダメにする電子機器(テレビやスマホ、ゲーム機器)に個室や冷蔵庫の食べ物に囲まれて、その良い影響よりどちらかと言うと悪影響を受けて社会で使いモノにならない「大人」が出現している・・・ような気がする。

個人の人生において、これほど不幸な状態は無いと思えるが当の本人は案外にケロッとしていることもある。
病識の無い精神疾患のようなモノだ。
富も栄達も幸運も幸福も自分には縁が無いと確信している風にも見える。
身なりを構わず態度やふるまいや仕事にも心を配らず、まるで衣類を着た犬や猫のようなその日暮らし・・・それも非生産的で無為で無知で少しも美しくなく感動的でもない「生き方」。

これらが全て少年時代の過ごし方にあるとするなら親の責任、教師を含めた社会全体の大人達の責任はとても大きいと思える。
「腑抜け」た「怠惰」。
勤勉とか勤労や勉学についての動機づけが少年時代に上手く涵養されていなければ大人になった場合、コトその個人にとり極めて深刻なのである。
「自立した生活」を得ることができず、社会のセーフティーネット・・・たとえば生活保護や各種の年金にすがってしか生きてゆけない・・・勿論実際にそのような状態に他力的、或いは天恵として与えられた人は誠に気の毒であるがとりたてて何の問題も無い男女にとって少年時代が鍛錬的、トレーニング(立派な大人になる為の)的でない場合に甘くされた大人は哀れなほど不出来、即ち社会適応が困難に見える。
少年時代、少女時代に戻りたいと強く願う大人の男女の人生はどこかしら心もとない。
一方で敗北的なほど強く大人達から圧迫された子供時代を送られた大人達の「成長」「発展」ぶりに目を見張るモノがある。

即ち大成功した人物の少年時代は悲惨とも呼べるほど玄人困難とに満ちていることが多い。
数多の童話や寓話の物語がこのことを如実に語ってくれる。
それらを切り抜けて少年時代を甘い郷愁で懐かしく思い出す時にはじめて深い「喜び」を感じるのではないだろうか。

ありがとうございました
M田朋玖



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