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■ 敬遠 | 2023. 8. 5 |
令和5年も7月晦日。 明日から8月。 幾分涼やかになった夜の風に乗って秋虫の声が微かに・・・だがしっかりと街路樹の葉陰に染みわたる。 その名の如く時間(光陰)は矢のように過ぎてゆく。 この調子だとあっという間に死床の抜け殻を前にうろたえる自らの魂が周囲の顔ぶれを見くらべて首を捻っているという態も直近に思える。 「明日は我が身」という言葉があるけれど、これは人間の宿命として全人類・・・どんなに富裕であろうと、或いはどんなに貧窮でいようと、いくらあがいてももがいても神様を死ぬほど拝み倒しても広く遍く細大漏らさず厳然とおとずれる。 「死に神」と言うのは一般人からすると不吉な印象を持たれるが、死が苦難の人生を救済する最後にして最善の「安寧への手段」ならば幸福の絶頂であろうと不幸のドン底であろうとそれらにまつわる全ての「面倒臭さ」が消滅してスッキリするかも知れない。 時間、そして「生と死」。 一個の人間にとって現世における時間というモノは生と死の「間の時」即ちその字面のとおり個人の生命そのものの輪郭を形成している。 それで多くの人は殆んど無自覚に忙しく富や財や愛や夢や希望や快楽やさまざまの欲望の満足を求める。 人間を称して「『欲』が『肉』を着た存在」と言い放った哲学者もある。 確かにそういう一面もある。 しかし存在として人間はそんなに浅薄で即物的な生き物であろうか。 「『魂』の永遠不滅」を願うのは多くの人間の自然な「性」であろうけれど・・・少なくとも少しは宗教心や思想哲学を持った・・・人なら勿論或る種の思想にはそれを否定するるいもあるが・・・多くの一般庶民にとってはただ単にその場その時の欲望のまま毎日を無為に過ごし所謂悟人の言う「魂の成長」などに一切興味関心が無く毎日の性と食と睡眠などさまざまな欲望と衝動に突き動かされてその日その時を動物のように送っているというのが大衆庶民の現状ではないだろうか。 筆者とて全く例外ではなく「欲の塊」と化して特に悦楽的な類には目が無く、そういう意味では極めてシンプルである。 自分の欲の「在りか」を知っているのでそれ以外にはほとんど自分の大切な時間を供することがないように用心深く時間の使い方に気を配っている。 最近では特にそうしている。 ここ2〜3年が殊にこの傾向が強くなっており、自分の特有の「遊び」にはしっかりと時間をかけ、その為のこれまた用心深い飲食生活と深く長い睡眠と休養を心がけている。 さて本題、大谷翔平。 野球に全身全霊を注ぎ込んで莫大な収入と世界的な名声とを手に入れている。 彼の人生も個人的には少しも羨ましくはない。 払っている犠牲も大きいからだ。 29歳・・・の年齢の時にはイヤイヤながら開業医の仕事を始め・・・父の医院の継承をして・・・クルマ遊びやバイク遊びに興じて全く子供のような生活をしていた訳で、あらためてその老成した立ち振る舞いや素晴らしい人格と才能を世界の人々に見せつけている悟道の人のような存在に呆れ返るほど尊敬の心持ちを我ながら感じている次第だ。 メジャーリーグも後半戦に入って定番のように「四球攻め」という作戦を選択している各チームの監督もピッチャーもキャッチャーも「勝つ為に」愧じることはなく「武士道の一騎打ち」のように正々堂々と戦いを挑んで欲しいモノだ。 そう、生と死の間に四球(フォアボール)など作ってはイケナイのだ。 何しろプロなんだから・・・。 勝つだけが「魅せる」野球の真骨頂かも知れないが。 死球も四球も言わば「死に玉」。 生き生きとした躍動を感じない。 申告敬遠などやめるべきだ。 プロなんだから。 人生全体には時には「敬遠」も必要だろう。 しかし天下のメジャーリーグで・・・。 繰り返しになるが「プロなんだから」やっぱりダメだろう。 お客さんあってのプロ。 これを忘れている・・・と言うか忘れかけていると思う。 しかし大谷翔平対策として、戦略として敬遠と言う策は極めて誘惑的な選択である。 兵法にもある「逃げるが勝ち」なのだ。 勝敗にこだわるなら、しかしプロでなくても逃げるだけでは観客は納得しないだろう。 ありがとうございました M田朋玖 |