コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 看取り2023. 6.24

当院でも関連施設の介護施設でも時々ご本人、若しくはご家族から依頼されて「看取り」をすることがある。
病状が比較的軽いウチから頼まれることがあり、勿論「ウチで良いんですか」と確認してから恭しくお引き受けすることになる。
それらを受け入れてくれるスタッフの皆様には感謝感謝である。
「そういうこと」を引き受けたいと強く思っている訳ではなく、性格からして「断れない」し、また医者の仕事として「死に行く者」を「見送る」ことも、仕事のウチだと日頃から考えているのでどちらかというと「安請け合い」である。

昔は「ホスピス」と言う呼称の病院施設があったが、転じて「緩和ケア」なる制度が出来て地域の中核病院を中心に次々と開設されたが、この施設には問題が多い・・・と言うのは点数的・経済的に「マルメ」になっていて1ヶ月に何点と決められている。
なので施設の運営側としては出来るだけ「何もしないこと」が利益につながるらしい。
安価な鎮痛剤を中心に「何もしない」を推奨しているようで、中身として制度として極めて不親切と思える。
だいたい死病・・・死期が決まった病人なら出来るだけ「安上り」に「死んでくれ」という行政側の「悪意」を感じる。
医療的には全く最初から諦めている有様で、治療としてもケアとしても「緩和」と言う言葉のとおり実に「緩くていい加減」な制度に見える。

それで我が実母も自分の施設で最後まで頑張って「治療」して痛みに対しても強力、かつ高額な薬剤を使用してそれこそ人生のラストステージを苦しみも無く痛みも無く過ごしてほしい・・・と言うコンセプトに基づいて「看取り」というコトをした。
人間は・・・勿論すべての生物は必ず死ぬ運命にある訳で、先進国のみならず「死」の「看取り」というどちらかというとセレモニーに近い医療行為がいくらか厳かに存するし、社会もそれも要請している。
死に方を選択することは「出来る場合」と「出来ない場合」があって、その人の生き方や宿命に準じているけれど、それを出来るだけ「快適にしたい」という本人と周囲の欲求もあったりとして医療者としても治療者としても介護者としても結構悩ましい問題を包含している。
普通の人間なら老衰というのが突然の自然死によっておとずれるのが本望とも思えるが、或る程度若い時に「死病」を患い、それが原因となって死を宣告されたならばいずれかの医療機関で「看取り」をして貰わなければならず、お互いにとって面倒といえば面倒だ。

人間一人生まれて死んでいくのには相当な「面倒臭さ」が存する訳で、毎日の健康な日常というモノが実に有難いコトであることは骨身に染みて実感できる「看取り」の経験である。

高度先進医療とか各種の民間療法もとりあえず選択肢にあるとしても、超富裕層や有名人ならいざ知らず「普通の人」なら免れ得ない現実で、不思議なことに筆者の研究では群を抜いて富裕層の場合やはり貧困層よりも長命であるようで、これは当然かも知れない。
後者の場合どこかしら自死の態に近い自らの生命の病失病没というカタチが多く、中には実に痛ましい例がある。。
「地獄の沙汰も金次第」とは昔からの諺だが未だに的を射ていると思える。

ありがとうございました
M田朋玖



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