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■ 時を惜しむ | 2023. 3.17 |
上記のコトを高齢者になって初めて意識をしている。 「限りある人生の時間」という事実を強く意識するようになったからか・・・或いはそういう事柄を解消する本に出合ったりと・・・殊更に目につくようになったし考えるようになった。 或る意味自然なコトであると思える。 「時を惜しむ」は「時を愛おしむ」に置き換えても良いだろう。 瞬間々々をいつくしむように愛でるように味わう。 特に楽しいコトにたずさわっている必要はない。 どんな状況であれ「精神の自由」さえあればそれは可能ではないかと考えている。 今この文章を書きつづりながらこの行為にそのものに意識を集中して「楽しむ」と決めれば「コト足りる」と最近気づいた訳である。 近頃流行っている「マインドフルネス」。 この言葉がヒントになるかも知れない。 基本的には「究極の瞬間」を捉えることはできない。 こまかく言うとほんの数秒の「瞬き」ですら一刻も休まずに「流れている」のが時間の本来の性質なのだ。 「今」を楽しむと言っても厳密に分析すると「流れている間」を楽しむことぐらいしか出来ない。 ただし一般的な意味での「今」を意識することはできる。 「今ここ」に「意識を集中」するとさらに時間の流れが速くなったという錯覚を味わう。 「没頭している」「夢中になっている」即ち「時が経つのを忘れている」状態になるからだ。 これを「浦島太郎現象」と個人的に呼んでいる。 「時間を止める」ことは出来ない。 この現実はすべての生きている人間に自らの「余命宣言」を突きつけてくる。 どんなにあがいてももがいても「死」という名の滝壺が人生の川の流れの終末に待っている。 人間は「永遠」・・・即ち生きとし生けるものは「永遠の生命」を得ることはできない。 それでも繁殖を通じて自分の遺伝子を未来につないでゆくことはできる。 それで人類の歴史における「子孫繁栄」という言葉も個人の精神の安定に何がしか寄与するかも知れないが単なる幻想なのかも知れない。 あらゆる宗教とか思想とかの哲学はこのことを深掘りして伝えているが、多くの人間は現世の目に見える世界での「思考」や「欲望」や「感情」から自由になれない。 それらに強く「捉われている」状態が多くの人間の実相であろう。 その点、人間以外の生物はそれらの本能的な「衝動」にこだわり、とらわれることがないので一見するとずい分気楽に見える。 特に猫などの動きをツラツラと眺めていると「悟道の人」のようにも見える。 「ただ生きる」「今を生きる」という観点からは自然界の人間以外の生物の「生き方」は結構参考になる。 癒やされもする。 人間の苦しみの大半はつき詰めて辿って行けば殆んどすべてこの「時間感覚」に紐づけられている。 それでいくらか結論的に述べるなら、いったん「悟道の人」のように無欲無心になって「今ここ」で純粋に過去や未来なる時間感覚をすべて捨て去って、あらためて「時を惜しむ」というより「時を楽しむ」という考え方、捉え方を取り入れれば良いのではないかと思える。 つまり「時」を基本的に意識して「忘れ」そして「楽しむ」。 このあたりの感覚の表現は難しいのであるが、人間が時間そのものを「コントロール」出来ない以上、時間に対する「意識」を「コントロール」するしか法はないのである。 時間という「物理現象」「課題」に対して「どう考えるか」を厳密厳格に科学的(?)に検討し、吟味し、考察し、その時間を・・・自分の反応(時間についての)を清明に意識するしかないのではないかと最近しみじみと考えるのだ。 人生を「人が生まれてから死ぬまでの時間」と考えると時間は人生そのものだ。 瞬間々々の時間は実にかけがえのないものだ。 これを惜しんで愛おしまないでいられるか。 ・・・とこんな風にあらためて考えると日中起きている時にはよ〜くリラックスして意識を清明に保ち、行為行動を少しだけゆっくりとして・・・間をあける感じ・・・態度やふるまいを正調で丁寧なモノにして日々の生活を慎重に従容として過ごすように努めることだ。 このことはいよいよもって老境を迎える自分自身に対しての真摯な助言である。 この文章を書くにあたっても上記のコトを意識していると文筆という作業も以前は少しだけあった「辛さ」「苦しさ」みたいな類が薄れるのを感じる。 文筆という作業の癒やしの効果もまたありありと感じ取れることが有難い。 アタマの整理にはモッテコイだ。 ありがとうございました M田朋玖 |