コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 今を生きる・・・明日(未来)は死んでいる2023. 3.11

「光陰矢の如し」
光陰とは時間のコトだ。
光の影を時間とは昔の人の感性の素晴らしさには瞠目させられる。
時間と空間こそ宇宙の成り立ちそのものだが「光」になぞらえて時間を捉えていた・・・と考えると漢字を考案した「文明人」は現在の宇宙物理学にも通じていたのではないかと推し量ってしまう。

さて、時間とはかくも貴重なモノであるがその進む速度の速さには呆れ果てる。
予定されていたイベントや催しがあっという間に眼前にやって来て、あっという間に過ぎ去ってしまう・・・。
この調子だと「自分の死」という人生の終着地点もあっという間に自分におとずれ、荒漠たる「死後の世界」へと連れ去ってしまうのか・・・と思うと、瞬間的に恐ろしく、深く、暗いその漆黒の闇を地上に広げた洞穴に投げ込まれる・・・というような恐怖を味あわされる。

齢70歳を迎えようとするまぎれもない高齢者の自分としては当然ながら「老い」の兆候はさまざまの身体の各所に露出していて今や隠しようがない。
いくら老体に鞭打って「時間」に抗したところで残酷にも無残にも「永遠の生命」という幻想は見事に粉砕され、ひょっとして見苦しい死に様を世間に晒してしまうのではないかと怯えてしまう始末。

そんな羞恥に耐えられるかは自分の覚悟次第だが・・・。
そうだ「死の覚悟」こその毎日の人生の過ごし方の「基本原則」かも知れない。
メメントモリ・・・「死を思え」とはよく言ったもので、確かに死をしっかりと意識していないと「良く生きる」ことが難しくなりそうだ。
生と死は表裏一体、紙の裏表、物事すべての構成要素の基本形。
すべからく「そうなっている」のだ。
人間の誕生とその死、出逢いと別れ・・・さまざまな事物や現象が全てあからさまにこれらを物語っている。
・・・そう、我々には時間なんて無いのだ。
現実的には大概な人々の行動群が「そんなことをしている場合「こんなことをしている場合」ではないのだ。
それでは何をすれば良いか・・・「死」と似たような心境、即ち瞑想、座禅の「三昧の境地」。
それらを実践して人生をしっかりと味わうしかないのではないか。
「坐忘」・・・自体のチカラをすべて抜き去って心を虚無にして何もかも忘れてしかる後に感覚を極限まで研ぎ澄まして眼前に現出する世界が「光」や「音」や「味」や「ふれあい!をあらためて「味わうならば」まさに三昧の境地に立ち至り、素晴らしい「無の世界」で「遊戯三昧」。
人生のすべてが「遊び」になり、時間の経過するのを「美しい景色」が流れ去るパノラマワイドの大窓から悠々と眺望する。
時間を有意義に過ごすのには「それしかない」という気がする。

文字を書く指の動き、水を飲む口、座っている身体の感覚、これらすべての感覚が全て失われる運命にあるのに、それらを惜しんで楽しまずにいられようか。
あらゆる活動が人生の悦びの発生源なのだ。
生まれて初めてモノを見る喜び、文字を読む喜び、クルマを運転する喜び、異性の肉体の秘密を知る喜び、「性」の喜び・・・人生は・・・そう・・・喜びゴトに満ち満ちているのだ。
すべての時間とお金をあらいざらい使って遊びまくろう。
「明日(未来)は確実に死んでいるのだ」


すべてを「遊び」に変えよう・・・実のところ実際に「遊び」なのだ。
「ゲーム」とも言える。
「人生ゲーム」・・・それは「恋愛ゲーム」「お金のゲーム」「仕事のゲーム」「地位や名誉を得るゲーム」「人間関係のゲーム」・・・何でも良い、それぞれ個人の好みに合ったゲームを生きているのだ・・・人間は勿論意識してゲームに参加していない人々もいる。
「悟道の人」。

出来る限りワガママに、自由に自己中心的に生きてみよう。
真の意味の自己中心と自他を区別なく大切にするモノだ。
生命ある、イヤ生命なんてモノでないものですら愛おしみ、愛で、楽しみ尽くす。
それでこそ人生の醍醐味と呼べるのではないか。
時間の経過など恐れることはない。
勿論死さえも・・・。
今を生きる・・・真の意味で今を生きるしかないのだ。

ありがとうございました
M田朋玖



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