コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 絹の雨2023. 1.31

冬の灰色空から音もなく静かに降って来る霖雨が少しずつ少しずつ小雨になり霧雨となった。
それは灰色と黒のまだら模様の雲。
地平線から天空のすべてを覆い尽した美しいモノクロの暗幕。
それがやわらかく軽い絹のような雨を降らせている。
まるで薄布がフンワリと幾重にもかぶさるようにゆっくりと走るクルマの上に。

今夕も都会はたそがれが真冬の冷たい空気を青やかに染め、人々を家路へと急がせる。
クルマの前照灯が薄闇をチラチラと照らし、まるで賑やかなコンサート会場のスポットライトの明滅のようにも、話題騒然の記者会見場のフラッシュの洪水のようにも・・・と見た。
時が駆け足で過ぎるのを感じる。
それは光のように早く鋭角に現世を変化させるようだ。

チクチクと胸を刺す数年来の「喪失の痛み」が最近とみに、頻繁に心に湧き上がる。
それは亡父母、かつて愛したヒト、親しかった友人達それぞれに「過去のひと」かも知れないのに心の中ではありありと実在だ。
ただ会って話をしたり「触れ合ったり」できないだけ。
或る統計によれば4〜5年過ごして親密であっても実質的には「一緒に過ごした時間」となればほんの1ヶ月にも満たないそうだ。
そうであれば「過去の人」も「現在の人」「死者」も「生者」も「自分の心」を「中心に考えると一人でいることが多い人についてはそれらの人々が「混在」していると言っても過言ではない気がする。

神々の降らす気まぐれなごく極小で微細な雨粒・・・絹の雨も天を舞う天使達の悲しみの涙ともとれる。

人間の抱く悲しみのすべてを洗い清めるように決まって雨が降るのだ。
それは偉大な人の死への弔いの日に、親しき人の早世の日に・・・宇宙と人間の心は繋がっていると人は言う。
地球という星は深い悲しみと喜びの星なのだ。
愛と死は分別が難しい。
合一に向かう人間の心と肉体はおびただしい数の人間の死によって築かれている・・・そんな気がする。
現在が過去の蓄積と考えたらそうとしか思えない。
人類の文明の発展は人々の知識や情報の積み重ねによって生じ現存している。
すべての物品が「文化遺産」とも言えるのだ。
多くの人々が気軽に所有しているスマートフォンなる文明の利器が或る一人の人物によってアイデアされ多くの知者の英知を結集して完成し、人々の手に渡っているコトを思えばどんな物品もそのルーツをたどるべき時にそれらが人間の頭脳と「人間の手」によって生じさせられているコトに気づかされる。

「誰か」が考え出した物品に囲まれ、その便利さを享受し、そのことに感謝をせず深く味わいもせず只単に自然にそこにある日常生活の必需品にしている人々に或る種感動すら覚える。

しっとりと音もなく降っている「絹の雨」がそんなことをつらつらと考えさせてくれる。
今この運転している「クルマ」という日本経済の一角を大きく担い強く前進維持発展させてくれる自動車産業という工業製品を何気なしにその操作性と快適性をしっかりと味わい尽くしたいと思う。

「自分の肉体」という神の与え賜うた極めて精巧な自然天然で唯一無二のこの素材をいかにこの現世で生かしきり楽しむか・・・。
世界の進化発展に尽力させるか否かはそれらの人間の心の中に秘蔵されている。
それらは殆んど完全に死蔵されたまま人生の幕を閉じる。
多くの人は。

メメントモリ(死を思う)は古代ローマ時代の哲学者の言葉であるが、スティーブ・ジョブズという偉大な人物の死を前にしたスピーチで、あらゆる前進することへのためらいや「臆病さ」は「死」の前では無力であり無意味なのだと人間の肉体など宇宙の運行の広大無辺さに比べれば小さな雨粒のひとつにも満たない極小さであるのは人々に「我」に生涯これだけこだわりつづける。極めてはかない仏教的に即ち「諸行無常」に生かされているのに。

ありがとうございました
M田朋玖



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