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■ 忘却力 | 2022. 8.21 |
高齢者の増加に伴って認知症が増加しており大きな社会問題になっている。 最近の増加傾向は高齢者人口の割合と相関しておらず、明瞭明確に極単純に「認知症患者の増加」とデータ的に考えられている。 この「モノ忘れ」は認知症の初期症状であり、特徴的現象と言える。 ところが、コト「忘れる」コトについては人生生活に有益な場面や状態で老のではないかと個人的には考えている。 たとえば人間関係。 名前や誕生日やその他諸々の記念日を憶えているのは「記憶力」が良いとされ非常に便利だ。 良好な人間関係を保つ為に。 一方で嫌な体験、思い出したくない恥ずかしい経験・・・穴があったら入りたい・・・と表現されるようなひどい羞恥体験など一刻も早く「忘れ去る」ことをしたいであろう。 これが最大の「忘却」の有益な側面で、深い悲しみ・・・愛する人との死別や生別、巨額な経済損失、事故や災害、戦争や暴力などなどによる大切なモノ・・・健康、生命、財産など・・・の亡失など人間の経験する辛く悲しいネガティブな経験の種類は数が多く多彩である。 これらを「忘れられない」というのは大変な苦痛であろうと思える。 中にはPTSDとか呼称される厄介な精神的な病気があるが、これなど事故や災害や重大なハラスメント、被暴力の記憶等で生じるネガティブな体験の数々・・・これらはすべてありとありありと鮮明に憶えていたらそれはそれは大変な心の苦しみであろう。 世の中には学問的に忘却曲線なるモノがあって「時間」と共にどんどん新しい記憶が失われていく。 また古い記憶など自分で多く無意識的に変容させてしまい、実際の真実と記憶の内容が大きく異なる・・・などということも起こる。 過去の体験・・・それが良き類であれ悪しきモノであれ・・・が適当に忘却され自分に都合良く変容されるというのは実に「良いコト」なのかも知れない。 精神の健康の為に。 最近つくづくそう思う。 成書によればかなりの辛い体験も年数が経つとどちらかというと楽しい経験として記憶されるコトもあるらしい。 ごく人生を広く長く大きく俯瞰的に眺望すれば何のコトはないささやかで小さな「出来事」であったコトも多い。 このことは或る程度トシを取らないと分からない。 年月を長く経た夫婦関係などでもその相貌の記憶は若い頃と現在とか脳の中で適当に修飾され、錯覚され、お互いの「良好な関係」に益するかも知れない。 即ちありありとリアルに、鮮明に記憶されないことで毎朝毎晩顔を合わせた時に新鮮に感ずるのではないだろうか。 それこそ「毎日顔を合わせる」職場の同僚なども名前はともかくその容姿や顔相などしみじみと見つめて詳細に観察し記憶している訳でもなく、これまたテキトーに忘却されて毎日が「新しい」・・・即ち一期一会という言葉のとおり或る種の「新鮮な出逢い」がごくごく親しい間柄でも起こるのではないかと思う。 勿論それが病的に高じて年老いた老父母が実の娘や息子を見て「アンタ誰?」となったら(認知症)マズいであろうけれど、何度も述べているようにテキトーに忘れることは上記のような理由で良きコト、素晴らしいコトなのではないだろうか。 また新しいコトを記憶するのに古い記憶が邪魔をする・・・という理論もあるようで、記憶力と忘却力は「対」で考えないとイケナイとも考えられている。 しかし記憶と忘却を繰り返し続いていくのが人生であろうし、忘却の無い世界は「悲しみに満ちている」と言えなくもない。 何故なら悲しみという感情は記憶された過去の喪失体験を「追憶」することで生じる感情で「さよならをする為」の心の作業であると同時に適切な忘却によって癒やされる筈の感情であると・・・あらためて考えるのである。 文頭に掲げた「認知症」も人間の心を悲しみから解き放ってくれる神の恩寵であるかも知れない。 こう考えると人生は記憶と忘却と悲しみと懐旧の入り混じった複雑怪奇な脳の中の現象・・・夢まぼろし・・・と言えなくもない。 ありがとうございました M田朋玖 |