コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 趣味について2022. 7.13

自分が多趣味であると思ったことはないが、実際には・・・年齢や職業を勘案すると「趣味の多い人」と言えるかも知れない。
因みに親しむ時間の多い順にリストアップすると以下だ。
案外ヒマ人である。
@読書(雑誌も含む。毎日平均1〜2時間)
Aカラオケ(週3日。2時間ほど1回3〜4曲)
Bスポーツ(バスケットボール。1回1時間30分 週3回)
Cクルマ(毎日ドライブ。10分〜2時間程度)
Dオートバイ(ツーリング月1回6時間〜10時間。ソロ不定期)
E映画(週に1〜2本鑑賞。ビデオ、配信映画、劇場版含む)
F音楽鑑賞(クルマの中で20分〜30分/週)
G旅行(義務的であったのに近頃趣味になった。都会と温泉など・・・。観光はしない)
H音楽演奏(ピアノの練習を週1回。・・・始めたばかり)
IYouTube出演(?) 1日10分程度
Jコラム書き(週合計1時間1本)
K手紙、ハガキ
思いつく範囲でも上記になった。
これを多趣味と言わずに何と呼ぼう。
現実的にL絵画という本物の趣味があって費やす時間と情熱を傾けるレベルを鑑みるとこれにM写真となる。
またLMについて耽溺という意味では1日中アタマの中に在って、自分の脳髄を楽しませている。
そしてN腕時計だ。
あとLMNについては終日・・・仕事中やその他の遊興事の真最中であっても主として後頭葉の視覚野を中心に脳の中で展覧展開している訳で、ソレに親しんで倦きることがないとは・・・。
我ながら驚くべき“趣味”ぶりだ。
それを楽しむという意味で。

単なる思いつきで書き始めた表題の趣味についてはこれほど豊穣で、多様で、執拗と呼べるほど日常生活の中に深く根ざし綿密に染み込んでいて、それらの趣味と自分自身との「一体感」は自分の「人生そのもの」と呼べるほど自らの脳裏を恒常的に蠢いている。
「ジキルとハイド」という有名な小説があるけれど、字面の意味するとおり「脳の表」(仕事や社交・・・YouTube出演、スポーツを含め)とそれこそ「脳の裏」には絵画と腕時計がしぶとく根を張りはびこっている。

「己を知る」という意味で文筆ほど本当の自分を知る為の手法、アプローチ法はあるまい・・・と思えるほどに「自分の趣味」「好きなこと」に思考と欲望と情熱の行く先に思いつくままに頭をめぐらしてみると驚嘆すべき事実が眼前に突きつけられて「暗然」としている次第だ。
暗然と表現したが或る意味「明々白々」と「自分の真の好むところ」を知ることは大いに喜ぶべきコトで人生の時間の大部分を本当に好きなコトにあらためて心おきなく専心することができると思える。
これらの手続きで時間を節約できれば出来る限り「ソレ」をして人生の喜びを思う存分堪能できる筈ではないか。
これらの「自問自答」を通じて発見できた本来の自分の欲求の「ありか」は充分に大切にするべきで、それらに「まつわらない」・・・即ち余計な活動・・・つまり本来の欲求に即しない「ヒマ潰し」的活動は強く「差し控えて」楽しい人生の時間を過ごせるかもしれない。
これらの真実への「気づき」は大変に貴重且つ有益でその恩恵は人生へのマチガッタ方向性を鮮明に鋭く指し示してくれるに違いない。
この文章を書き始めてまもなく物事の「真実」・・・言い換えるなら「本当の欲求」「自分の人生で何を実現したいのか」という「問いかけ」に解答できたという喜びは大きい。

やはりと言うべきか薄々感じていて自分の心を隠さずに正直に向き合うことで生じた「気づき」の最大は自らの芸術性への感度の高さ、美やエロスへの情熱である。
今までそのために生きて来たという深い実感すらある。
人生生活を彩る幾分耽美的で自己満足的な芸術志向がチョットした書画購入と腕時計から始まっている・・・というのも我ながら意味深だ。
この手首を飾る・・・極密やかに・・・「自分の存在」を強く主張し装着している本人と、時にはその周囲の人物に示している。
それを好む者にとっては美品・・・美しい機械・・・それが発信源となって自分の趣味嗜好における「美」についての神経質さが時には病的にあって自分を幸せにしたり苦しめたりするコトに・・・」思わず知らず気づかされたのであった。

何事につけ「見た目重視」という性向について殆んど日常生活に弊害は無さそうであるが「強烈な美意識」と呼べるほど格好の良い類ではない事柄が自意識と結びついた時には強い自己嫌悪とはたまた逆の「自惚れ」とが交錯して結構厄介な悪循環を呼び覚まし自分の心を苦しめる。
人間が自己関心を放棄した時・・・それが強く深いモノであれば・・・精神の安楽を得るとは思うのであるけれど、この自分に関心を持ち自分を飾るという志向性を失った時その人物の「見た目」というモノがいかなるモノなのかと考えると世間的にはあまり好もしい結果を得られないかも知れない。

マナーの目標がその人物の美しさであると仮定すると、その根底にあるのが「思いやり」であるとしてその人間のふるまいや態度や服装に「美」を求めることは決して悪いことではないと個人的には考えている。
筆者が医業(サービス業)にたずさわっている以上疎かに出来ないマナーや礼儀正しさ。その心根の奥底に上記の美意識と芸術性があるように思える。
言い換えるならモチベーションそのもの・・・と。

ありがとうございました
M田朋玖



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