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■ Why?How? | 2022. 7. 7 |
「どうして」「何故」と人に問うと争いになる。 自分に問うと苦しむ、悩む、ついで落ち込むというコトが起こる。 物事のカラクリや人間関係等、あらゆる事柄について「何故」という言葉はコト「分析する」には大切な言葉、考え方である。 「何故、成功したのか」 「何故、失敗したのか」 しかしながらこれらの問いかけが全く実りのない不毛の行為、言動であったりする。 即ち何も有益な成果、結果を生み出さない。 そればかりか非常に有害であることも多い。 本質的に、究極的に、存在論的に物事の「何故」「どうして」に明確に解答できることは全く不可能である。 上記の前提を思考のベースに置いて、例えば「宇宙はなぜ存在するのか」「自分はどうしてこの世に生まれ、生きているのか」「何故に自分は男として生まれたのか」「何故人は争うのか」「何故人類は戦争するのか」「この世界はどうしてこのように『在る』のか」。 このように事物やこの世界の現象についての根元的な問いかけにキッチリ解答できる人は少なくともこの地球上の現世には存在しない。 それこそ「神」若しくはそのレベルの「知性」を要する問題なのだ。 何がしかの理屈を考えてその原因(?)を仕立て上げることは出来なくもないけれど・・・。 極ささやかで些末な事柄についてさえ、例えば「何故お前とそれをしたのか」という問いかけに対して、或る自身の感情・欲望・衝動など心理的に身内から湧き起こった何らかのエネルギーを抑制できずにその「行為」(それが善行であれ悪行であれ)に及んだ・・・ということの方が多いのではないか・・・。 即ち殆どの人々は無意識に、反射的に夢遊病のように「ソレ」を為すことが殆んどなのではないかと考えるのだ。 そう考えると犯罪者における警察署の調書などに記載される「動機」と称する文章も、それがたとえば男女間の愛憎とか怨恨とか金銭トラブルや物盗りとかであったとしてもその犯罪行為についての最後の心理的ひと押しは・・・つまり動機の最終結果には冷静に理性の入り込む余地は無く殆ど無意識的にその行為に及んだと推し量るのである。 何故ならば少し考えれば・・・イヤしっかりと考えれば「犯罪」というものが割りに合わない上に利益を得る確率が低く感情的な処理機能も長い目で見れば逆効果であったり極めて危険な愚行であったりすることに気づく筈だからである。 或る程度思考の正常な人間であれば・・・(実は精神異常者が多いのは事実であるが)。 「日本国の治安の良さ」についての話題が海外で知られて来て沸騰していると聞くが、その原因としたらやはり民族的に大人しさとか「おだやかさ」とか思慮深さとか「思いやりの文化」とか子供の頃からの「しつけ」の影響とか取り沙汰されているが、総合的には「アタマの良さ」「賢さ」にあるのではないだろうか。 何度も述べているように犯罪というモノは基本的に愚行の最たるものであるし、それをしないことの「賢さ」こそ治安の良さの「基礎的要因」と思える。 それも所謂IQではなくEQ(感情のクオリティー)の高さ。 話を戻すがこれらの思考の流れと「何故」「どうして」という問いかけが概ね「無駄」に終わるという結論を無理矢理導き出そうとしている筆者の思考回路をつまびらかにするのはいささか困難であるけれども、端的に述べるなら自他に「何故、どうして」との問いかけはそれらとの争いの原因になるのでやめておいた方が安全であるし、平和であると思える。 ついでに「どうしようか」などという問いかけも個人的にはあまりよろしくない・・・と考えている。 「Why」「How」の無いアタマは非常にスッキリしたものになる。 「?」の無いアタマは疑問が無く良い意味で思考の停止した状態で起こったコトの意味を純粋に考えるのだ。 自分の人生にとってこの状態、状況、結果や現象がいったいどんな意味を持つのかを自問するのである。 そしてその解答は数年、あるいは数十年後に「アッ、そうか」と気づかされる。 それまで「Why」や「How」をやめて「流れに身をまかせる」という姿勢を貫きとおす。 ありがとうございました M田朋玖 |