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■ サービス業の五徳五戒 | 2021.10.14 |
コラムの8項を利用して小説を連載してみたがイマヒトツであった。 何しろ書くのが難しい。 もう少し頑張るつもりであるが、閑話休題、「好きなように書ける」コラムに一時戻ってみた。 10月3日日曜日には予定が無いものの前週、前々週からの2週連続のツーリングの為か8時前に目覚めたので車検中のCBR1000RRが無かったのでハーレーにまたがってみた。 目的地は隣々町の多良木町「王宮神社」。 父親の実家である。 月1回、第1週の週末を参拝の日と決めている。 走ってみての実感として「寒い」。 冬用のバイクジャケット(ハーレー用)の試着試用も兼ねていたので好都合であった。 日中の「暑さ」との想像を超えたギャップに驚きつつも次週のツーリングのウェア選択の参考になる。 午後はJoyfullというファミレスのチェーン店でサラダとしょうが焼き。 「ドリンクバー」のソフトドリンク飲み放題を買ってクラシックコーヒーを4杯も楽しみその店を後にした。 20年モノのソアラ430は重厚な走りと絹のように柔らかな乗り心地とウッディな内装の高級感で思い切り贅沢感を満喫できる。 買値の100万円は今時200万円近くする。 新車の軽自動車と比較すると所得感と満足感において格段だ。 勿論税金や車検など維持費に難がある。 それでもオープンカーに出来る上に純粋に娯楽用品と考えるとこんなコスパに優れた品は無いと思える。 夜、電動自動トップを占めて高速道路を走ると少年時代の夢は「これだったのだ」とあらためて気づかされる。 美しく青染された夕暮れの高速を好きな音楽を聴きながら「スポーツカー」を運転する。 「俺の人生最高だ」 クリント・イーストウッドの映画「運び屋」の麻薬運搬ドライブで歌う曲の歌詞を思い出す。 「夢が実現する」のだ。 全くそのとおりに実現したのだとあらためて気づくのだ。 我に返るとあまりにも色々な欲望に脳が忙殺されてこのことに気づけずにいる。 「今ここにある幸せ」を・・・。 多くの人間はたぶんそんな状態だと想像している。 あれこれと望み過ぎたり過去や未来を思考が追い過ぎたりして「今の幸福」を「不幸」に感じてしまう。 或る意味、悲劇的だ。 喜劇的だ。 そうして「失ってしまった時」気づくのだ。 あれが、あの時が「幸福そのものだったのだ」と。 「Happiness is composed of unintended」 意図のないことで幸福が構成されると満足=幸福という意味だ。 勿論どちらかというと幸運で幸福な人間の範。 サービス業(医療介護)に携わる者として自分自身の幸福感がまず最優先課題だ。 自分が幸福でないのに人を幸福にすることが出来るのか? これは本質的には「出来ない」と言える。 健康な人しか人を健康に出来るとは言えないが、少なくとも「美」と「若さ」を保っている人しか人にそれを「売る」ことが出来ない。 サービス業の本質は上機嫌と幸福感だ。 それにはまず自分自身の機嫌を取らなければならない。 話は飛ぶが「人の機嫌より自分の機嫌」を念頭に一日を過ごす。 たとえば年齢が実年齢よりも「老けて見える人」からこの商品は「美容に良いです」と言われてもその人の打っている化粧品を買うだろうか。 逆に実際の年齢に関わらずすごく若々しく元気で美しくしている人からは「何でも」買うかも知れない。 メンタルクリニックとしての治療もドクターとナースとクラーク達の上機嫌と「幸せそうな表情」が一番のセールスポイントであり「売り」なのだ。 そうして「サービス」においてもうひとつ重要なことがある。 仕事を「自己満足」に終わらないことだ。 「生活の為に仕事をしている」という表現は誰でもしている極めて一般化しているモノであるが、これほど仕事を「自己の満足」と化する最大の類であろうか。 仕事を「神聖なモノ」から「日常生活の道具」に堕としてしまう。 「他者満足」」もっと言うなら「他者感動」をもってして初めてサービス業たり得る所以となるのだ。 まとめて述べると「美」と「若さ」と「幸福そう」と「上機嫌」と「他者満足」(他者感動)をとりあえず当面の目標とするのがサービス業の五徳、その逆の「醜」(態度、ふるまい、マナーなど)と「老」と「不幸そう」と「不機嫌」と「自己満足」がサービス業に携わる者の五戒と考えている ありがとうございました M田朋玖 |