コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 死について2021. 8.31

常日頃この事については意識的に考えないようにしている。
「常人の習性」と思えるがやはり死は無条件に「怖い」のだろう。
世間の多くの人々も恐らくそうなのではないかと想像している。
最近流行しているとされるコロナ感染に対する人々の怯え方を見れば尚更だ。
死は生きている人間にとって「最後」の「未知の経験」である。
この「未知」という恐怖と慣れ親しんだ生活・・・特にそれがいかにも楽しい類であり、愛と幸福に満ち溢れたモノであれば殊更に・・・それらを失うこと、愛する人々との別離、そして自分の肉体や精神への愛着・執着の強い人にとって・・・「死」はそれら全部の喪失であるので死に対して極端に恐れるという心の状態になるのではないかと思える。
即ち仏教的に言う「煩悩そのもの」と化した人間にとって死が重い病と共に最大の恐怖の対象となり忌み嫌悪されるのである。

「考えたことは実現する」という巷間出版されている多くの「自己啓発本」に謳ってある「定理」のような法則があるようなので「死」という言葉や「死ぬ」「死ね」などの言葉は「悪言」とされ、出来る限り「考えない」「言葉にしない」ということを意識している。
これは医者という職業的な習性かも知れない。
けれども人間に訪れる何人も逃れようのない事態が「死」であるのでそれに対しての「覚悟」という心構えも実際には必要かも知れない。

「毎日、今日一日で人生が終わる」と考えて生きよ・・・という言葉を単に知識として知っているのでそんな風に生きてはいるつもりでいたが「実際にそうだ」としたら「想定外」の事態であるのでやはり「考えない」ようにしている。
この曖昧な「心の状態」で毎日生きている訳で現生的には殆んど「死」を意識しない日々を過ごしているということになる。
さて『「死」という「境地」は人間に残された最後にして最大最高の快楽である』という言葉もあるらしい。
まるで憑りつかれたように「死」に魅了されている人々もこの世には結構おられるようだ。
「心の苦しみ」から逃れる為に「死」を強く望む人々も多くの悩める個人、もしくは「精神を病んだ人々」に多く見られる。
多くの精神的に健康な人々、概ね大きな悩みのない「幸せに生きている」人間にとって死は「遠い絵空事」で自殺が増えたのはたとえばコロナ禍によって失職したからとか不治の病で身体の自由を失ったとか経済的に困窮しているとかさまざまの人間の精神の苦しい状態がその個人をして「死」という解決法を選択せざるを得ないだろうと多くの人は想像していると思うが実際にはそれほど単純な理由理屈だけではないと考えている。
即ち精神や肉体の不調、経済的苦境、人間関係による苦しみ・・・たとえば失恋や職場でのパワハラ・セクハラ、失職など数え上げたらキリがないくらいの「理由」が挙げられると思える。
けれどもその行動「自殺・自死」という「結果」についてはひどくシンプルである・・・その方法がいくら多種多様であっても・・・。

悲しいくらい無機質で同質な人生の結末は人類に一人の例外もなく遍く与えられた「宿命」である。
或る意味ひどく「安心」する。
どんな恵まれた人であろうと裕福であろうと、その身分がいくら高貴であろうと多くの人々に強く慕われ愛された人であろうと、また逆にひどく孤独で身寄りのない貧しき人であろうと・・・とにかくその人生がいかなるモノであれ冷厳におとずれる・・・即ち時間がくればどんな人にも下される審判が「死」なのである。
このことは実に無慈悲で悪辣な罪を犯した人間に下される極刑とされる他力的な行為、即ち「死刑」などで「死」ぬこと、人間にとっての最も重い量刑とされている人間に与えられる「罰」として世界中で広く認められていることに思いをめぐらすと或る種の奇妙な感覚を味わう。
たとえば90歳とか100歳になった・・・つまり死がすぐそこに、間近に迫ったと考えられる年齢の人に「死刑」といった人が人に与える「罰」の重みに果たして強い効力があるのかという「問い」である。
これは人間が味わう「不治の病による死期」の判明・・・それがたとえ「おおよそ」であっても「予後」という言葉で決められた死を宣告されたとしてどんな人々も人生が期限付きであるのに、また忍び寄る死の影が唐突に健康な人にフイにおとずれることもある「突然死」という状態もあり、明日の生命(生)は誰も保証できないという事実を殆んどの人が諒解している筈であるのに・・・上記のような状況に置かれている「人間の存在」であるにも関わらず「死」という状態にあたかも強く恋焦がれる「恋人」のようにそれを「求める」人があるというのには驚きを禁じ得ないが、一方でそのことに少しく共感もする。
「生きる」ことが身体的にも精神的にも今風に表現すると「メンドクサク」なって・・・たとえば重い病を得た状態、或いは進展した「老い」の為の身、それらの不自由などの状況に置かれたならば「自死」という選択をすることについて「全き否定」即ち「自殺はダメですよ」などとキリスト教徒でもないのに軽々に謂うことはできまいと思う。
今コラムでは「死」というタイトルについて主として「自死」「自殺」との関連について思いつくままに書きつづってみた。

ありがとうございました
M田朋玖



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