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■ 出逢い | 2021. 7. 2 |
ごく個人的に大きな(人生の転機になるほどの)出逢いはそれと意図せずに、まるで天啓のように降って湧いた「宝玉」よろしく筆者の眼前に「転がり込んでくる」。 不思議なことだ。 全ての運命的な出逢いがすべからく「そういう調子なので」実のところそれを願っている最近の「我が心境」は逆にそれらの「出逢いの障害」なのではないかと考えてしまう。 結果的に。 「出逢い」「めぐり逢い」の不思議を言葉には言い尽くせない。 それほどに精妙に神聖で目に見えないほど微細なエネルギーに満ちている。 こういう場合、自らの運勢を占ってみるのであるが確かに盛運の時に素晴らしく珠玉のような美しい「出逢い」があり、衰運の時にそれは起こらない。 「待てば海路の日和あり」 衰運の時にはじっと耐えるしかないのだ。 孤独に。 そして空閨に。 こうして書くとまさに性的な類を想起させるが、そうではなく実際に「恋焦がれる人」が何故か不在な時期があるのだ。 とは言えそれはが不快とか不穏とかではなく、逆に心はイヤに平和で奇妙に「満ち足りている」のだ。 まんざら衰運の時も悪い日々ばかりではない。 それは学ぶ時であり、与える時であり、何よりも次の出逢いに向けて「準備の時」であるのだ。 ついでに言えばその「出逢い」の相手は段階的に上昇しているので妙な期待感すら胸底にたたえている。 人生の各ステージで成長し、より良き変化が無ければその年齢に応じた魅力的なオーラの光を周囲に散乱できず結果的に素晴らしい「めぐり逢い」にも遭遇しえないのではないか・・・などと考えてしまう。 自己反省、自己探求、自己観察は或る意味長い人生においてとても意義深いモノである。 近頃のYouTube投稿は自らの動画を観察するという機会に恵まれ、自然的に色々な反省点が自分の話し方や容姿にいくつも散見され、それなりに「改善」に努めているもののそれほど簡単ではない。 自己変革は簡単なようで難しいものであるらしい。 それでもそれを行う材料(YouTube動画)があるのは有難い。 「万人向け」とは言い難いが自分なりに頑張っているのでこれ(自分自身)にツベコベ文句をつけるような人とは「めぐり逢いたい」とは思わない。 多少「ワガママ」かも知れないけれど「素の自分」を「ありのまま」に愛してくれる人でなければ真の意味でその「出逢い」を楽しめない・・・のではないか・・・。 これは当たり前のことだろう。 「これで良いんだ」「このままでOKなんだ」とまたあらたに思わせてくれる人とめぐり逢いたいと心秘かに考えているのではあるけれど・・・。 それでもやはり衰運の時・・・そしてまた今は「離火宮」と言って「離別の時」。 何かと離れやすい時期なので今保持している色々な「付き合い」「出逢い」や「財」や「才」の保守保全に注力すべきとも思える。 ひょっとしたらこの世から「おさらば」という悲劇もあり得るのだ。 尚更に、いたずらに余計な出逢いを求めて蠢きさまよう時ではない。 つつましやかに、静かに家にこもって勉強するときに違いない。 今秋以降2〜3年の出逢い、めぐり逢いの時に備えて・・・。 ありがとうございました M田朋玖 |