コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 走る2021. 6.28

毎朝走っている。
ほんの60mくらい。
1分であろうか。
チベット体操とプッシュアップ(腕立て伏せ)の後のランニング。
そのシャワーというのが朝のルーチンになっている。
勿論、祝詞を神棚に上げて・・・という行動も挿入されている。

そして再入眠。
何故なら先述した行動は4:00から5:00の間のルーチンなので睡眠時間の確保の為に無理矢理再入眠。
お陰で朝の目覚めが極めてよろしい。
毎朝天候にかかわらず爽やかな朝だ。
やはり今や世間の常識「運動はカラダに良い」のかも。
ついでに少し気になっていた「ふくらはぎ」と「太股」の太さが戻って来た。
ほんのチョットのランニングなのにこの著効には正直驚いた。
特にふくらはぎの太さは生命力に関係するそうで、実感として「健康感」が上昇を得ている。
ついでに半ズボン姿が少し下半身「大」になってファッションとして個人的感覚では「ダサくなった」と思える。
逆にスソに降りるにしたがって細くなっている(テーパード)パンツ(ズボン)のシルエットがさらに良くなった感もある。
これらの自意識的・ナルシスト的ファッション感覚は仕事や遊びのモチベーションに著しく強い影響力を持つようで毎日かなり細やかに気を使っている。
逆に言うと「これくらいのこと」でモチベーションを思いどおりに操作できる自分の単純さ、幼稚さが心を軽くする。
何しろソレが簡単であるし無条件に楽しい・・・と心から思えるのであるから・・・。

小学生時代より「自意識過剰」があって、当時から「オシャレさん」であったけれど思春期には街を歩けないほど「病状!?」が悪化したが30代半ばの自己啓発セミナーでありのままの自分を晒す「自己開示」という快感を知ってしまって以来、素の自分の露出について殆んど「ためらい」がなくなった。
以来「自分を作る」ことをしなくてよくなり全ての人間関係が劇的に「楽になった」。
まさに「青天の霹靂」的に出現したこの心境の変化によって自分のありのままの心の公への展示・・・たとえばYouTubeでの自分の動画upやリアルな自分の個人的体体験報告を書きつづった「本当の気持ち」の「吐露」などが割りと平気になった。

こうなってからの一番の利得は「疲れない」ということだ。
多くの人が自分を作って、即ち極言するなら偽ってお仕事をなさっているようで時々深く真から「気の毒」に思う。
ところでランニング中に何を考えたかというと自分の足と腰の感覚についてだ。
それに上半身の姿勢。
そして「走る」ことがただ単にとにかく「好きだった」少年時代への懐旧だ。

「足が速い」というのは運動会でのスター性の大きな要素で、たとえば町内対抗やクラス対抗のリレーの時にアンカーとして前走者をゴボウ抜きにする心地良さと優越感は格別でそのことを思い出すと自らの加齢による走力の衰えにも考えが及び少し落ち込む。
学業成績も大したことはなく、ただ単にいくらかヤンチャであったけれど特に目立った特技があったワケではなくとりわけコンプレックスになったのはソフトボールが苦手で、空振りばかりだったこと、顔が大きくて髪が多すぎて野球帽が全く似合わなかったことが思い出される。

少年時代の集合写真を見ると殆どの男子の友達が上手に巨人のマークの入った「野球帽」をかぶっていたのが羨ましくて仕方がなかった。
今でもそれらに類するキャップは苦手で滅多にかぶらない
小学生の時は全身コンプレックスの塊で運動会の時だけがそれを忘れられた。
「スター」になれない日の毎日地獄のような日々に思えた。
子供のくせに自殺を考えたくらいだ。
何故そんなに苦しんだのか詳しくは分からない。
今の世間や世界の閉塞感や抑圧的な心の苦痛が不思議に心を楽にする。
それは再び「走り」始めてそれらのことが脳裏に浮かび少年時代と老年時代の奇妙な共通点に気づかされる。
それは「自由な心」というもので少年のソレは「未」の自由、老年のソレは「済」の自由・・・と思える。

ありがとうございました
M田朋玖



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