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■ うしろめたさ | 2021. 6.16 |
以前のコラムで書いたと思うが筆者の悪夢は定型的で「試験」それも大学時代の試験を卒業後に再受験を学校側から迫られる・・・というもので恐怖感としては結構なリアリティーな類で強く心を圧迫させられる。 勿論夢を見ているときにはそれが「夢」と認識していないので、あの悪夢特有の辛く重苦しい感じが目覚めてからもしばらく思い出せられ今の境遇の「奇跡」に思いを致し、或る種の深い幸福感を味わう。 ところでもう一種類の悪夢があって、それは「家に帰る」ように家族に迫られるというもの。 この実行には心理的に相当のエネルギーを要し抵抗心を自覚できる。 幼少時期のトラウマに根差しているとは言え妻子には辛く寂しい思いをさせたのではないかという「うしろめたさ」が心から消えない。 また前記した第一の悪夢、大学時代のソレは「学校に殆んど行かないで」卒業した・・・という「うしろめたさ」に依ると思われる。 何しろ実際の出席日数の10%も講義を受けていない。 平日の起床は毎日夕方で夕食を大学の学生食堂に食べに寄ってついでに同級生に講義の「様子を尋ねる」ことで、とりあえず「心の安定を保っている」状態であった。 「学校に行って講義を受講する」というのがかなり苦痛であり退屈で10分〜15分席を温めてからコッソリと教室を逃げ出すか全く出席しないということをしていた。 当時は出席確認がとても甘く筆者の場合は最大限に不出席で全ての科目の試験勉強は成績優秀者、それも女子学生のノートの「コピー」に頼った。 試しに卒業前の数週間だけ「決心」して講義に毎日出席するということを実行してみたが逆に試験の結果は惨憺たるものであった。 以来自信をもって登校したり受講したりするのをやめてしまって友人のノートや各種情報を手掛かりに「独学」態勢に入った。 結果的に成績は上位10%〜20%に入って無事に卒業させてもらった。 有難いことである。 親切な友人達と出席に寛容な大学に深く感謝している。 今でも講義・講演というと物凄く苦手で30代後半にそれらをむやみやたらに受講していた頃があらためて我ながら驚嘆できるほどメズラシイ行動と自覚している。 上記「大学」と「家庭」についての二種類の「うしろめたさ」が時々悪夢となって現出するようだ。 大丈夫かな・・・と思えるほど「異端」でまっとうな社会から脱落してしまうのではないか、或いはまた具体的に資格を取り上げられてしまうのではないか・・・というおぼろげで心の底に隠された「恐れ」が潜在して筆者に悪夢を見せられるのだ。 少なからずある微妙な自信と劣等感、違和感、不安、孤立感など結びついているように思える。 この一種の罪悪感のような気分(うしろめたさ、気がとがめる感覚)は日常的に自分の不全感やアウトロー感、ドロップアウトへの恐怖みたいな心理が生じ、時々瞬間的に世間の「ルール」に過剰適応しようとして苦しむということが起こる。 この心理をはからずも緩和してくれるのは極めて有り難いことにいくらか「チョンボ」で「破天荒」なお医者様の存在である。 彼ら、彼女らは筆者に深い安心感をくれる。 個人的にとても貴重な人々だ。 「そこまではひどくない」とか「アレよりマシ」みたいな比較安心法は相変わらず心の「やすらぎ」を得るのに著効を示す。 それで時々クスリとか殺人とかスキャンダラスなドクター系のトピックを調べリストアップしたりしている。 しかし最近はこういうタイプの医者が減ってしまった。 今時の若いドクター達は真面目過ぎるほど真面目で優秀過ぎるほど優秀で興味関心を強く刺激する猛者が男女共に減ってしまった感があるし、結果的に筆者の異端ぶりが少しずつ干潟に隠れていた岩礁のように露わになるようで少なからず恐怖を味わっている。 ありがとうございました M田朋玖 |