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■ 孤独と虚無 | 2021. 4. 7 |
YouTubeを始めた為か「筆」が遅くなっている。 昨年末からつづいたひどい「傷心」のせいかも知れない。 心もカラダも良調に動かない。 バスケの練習も再開したが1日1食による「低血糖」の症状かスタミナがイマヒトツ。 後半つづかない。 バイクもご無沙汰。 ここ数カ月は「ひきこもっている」状態。 「ロコモティブ症候群」なる「症候」があって、年齢的に「気にはなる」ものの生来の「モノグサ」に拍車がかかっている。 昨年暮れからのハートブレイクの為に全ての日常の事柄についての意欲が急落下してしまった。 まず朝起きるのが苦痛だ。 「何のために生きているんだろう」などと哲学的には全く洗練されていない人間の吐く言葉がしきりに脳裏に浮かぶ。 「情けない」限りだ。 こんなに脆く儚いモノだったのかとあらためて我が心、我が身を思う。 桜の花びらが舞い散るサマをツラヅラと眺めるにつけ久々に心の重い低調を味わっている。 平成16年。 母親の病没の春に近い。 50歳の時だった。 忍耐力については自信があったけれど毎日々々が実感として「針のムシロ」といっても過言ではない。 虚無と絶望とが心を宇宙のブラックマターのようにマンマンと充満していて全身を鉛のように重くさせる。 それでも厳格な飲食管理と信心のおかげで何とか「生かされている」とは感じる。 実際に表面的には楽しいコトが満ち満ちている筈なのだ。 常人と比較すれば・・・。 確かにそうだとも思える。 仕事以外に束縛する類がいっさい無い。 自由と孤独はふんだんに人に配って歩けるくらい保持している。 自分が子供の頃から心の底で望んでいたことは今まさに総て「手に入れた」という満足感と実感さえある。 それでも最も大切な「心」が欠けている。 理性と本能は充分すぎるほどの満足を得ていると理解はしているが「愛」という名の説明不可能な欲望と感情の入り混じったドロドロとして奇怪で暖かな液状・泥状の沈殿物が心に少しも無く、実感として冷え冷えとして冷たく渇いた「虚無」が青々と透明に拡がっている・・・という心象である。 そこには雨雲もなく雨嵐もなくひたすら澄みわたってクール。 心秘かに幼少期より望んでいた理想の生活のような気もする。 確かにそう実感できるのに満たされない心は毎日を深い孤独へと押し流す。 「虚しく過ぎる日々」 この軽く明るく透きとおって希薄になった空気の中でいくらでも自由にはばたける筈なのに少しも心が弾まない。 何という矛盾、混乱、迷走。 自ら望んだ理想の状態とはこんなモノだったのか。 或る意味少年時代のイメージのとおりの生活。 愛のない暮らし。 自由と孤独。 オートバイ。 夜遊び。 大人の楽しみ事。 酒を全くたしまなくなって久しい。 ギャンブルについても興味がない。 ついでに飲食にも。 それで時間があるとクルマかバイク。 読書と映画(最近はYouTube)と好きなことに目いっぱい時間を費やしている。 一生で最も楽しいことを最低一日一度は「する」ようにしている。 それが何なのかはその日の気分で違うが選択肢はそれほど多くはない。 老後の楽しみ・・・。 たとえば海外旅行だの「孫」だのゴルフなど男同士で集って遊ぶことにも関心がない。 「夜の店」で水とコーヒーをガブガブ飲んでカラオケで歌うのが趣味。 年齢的には老後であるが仕事も今は趣味娯楽に近い。 週末、即ち土日祝日は時間をモテアマス。 一日中引きこもって自己作業(瞑想や読書)に埋没している。 これがタマラナク楽しい。 そして虚しい。 果てしない孤独感に絶望し歓喜する。 自由とは良いモノなのだ。 やはり。 孤独というのは苦と感じさえしなければ「真友」のようにいつも傍にいて慰めてくれる。 ありがとうございました M田朋玖 |