[戻る] |
■ 愛−活力の源泉 | 2021. 3.17 |
あまりにも予想どおりの展開とも言える今回のコロナ騒動。 マスコミも為政者も「落としどころ」が確定せず、とりあえずワクチン接種とかひとつの「言い訳」もしくは「感染者の減少傾向」をもって緊急事態宣言の解除あるいは延長という決断をしているようだ。 マスコミの針小棒大は今回に限ったことではなく、その「大袈裟」ぶりは実に偏向的で重大事案については無視や「スルー」で処理し、どうでも良い事案についてはその「コト」の軽重に関係なく異常にしつこく口説々々しく報道しつづけておられる。 社会とか国家とか国民生活の向上発展とかに寄与したいという高尚な意図が少しも感じられない。 やはりそれらに携わっている人々の知性と教養差のレベルに準じているとすれば実に嘆かわしい事態だ。 経済学者の高橋洋一氏によればマスコミの人々の程度は「その程度が関の山」であるらしい。 その影響力の甚大さに比して責任の重さへの自覚や社会的な存在としての「公」の意識がどうやら欠落しているようだ。 そう考えると今回の一連のゴタゴタもそれらの人々への「程度」を「推し量る」のに益したとは言える。 「低レベル」 これが結論である。 決して大所高所には立っておらず、ましてや高尚とか高潔とかの言葉で表現できる「レベル」の人々は少ない・・・と確言して良いかも知れない。 それでも日本人は世界一マスコミを信じている国民らしいのでこれは簡単に看過できない問題だ。 人間は集団になると総じて知能が下がるらしいが、最初からそれが高くないとなればマスメディアや世間大衆の間で流通している言葉や文脈など真面目に受け取って「取り組む」べきではないと最近特に考えるようになった。 さてごく個人的な精神の中身は相変わらず深刻な状態にある。 「愛」について。 愛情の授受関係についてのバランスが一気に崩壊してしまって、油断すると希死願望が出没するほど深く落ち込んでいる。 抗うつ薬を試してみようとも思うがその崩壊状態の心にも微かな「甘味」があってそれをいまだに実行しないでいる。 「自我の崩壊」というと一見ヤバそうだが極言すれば「大したことはない」とも言える。 こうやって文章を書けるくらいであるから・・・。 色々と工夫を重ねて相当に冷静になったのであろう。 我ながら「自分の心は分からない」とあらためて確信した次第である。 ただし毎日が一刻一刻無為に過ぎているという虚無感が強烈にあってそれは「愛の喪失」によるものと思われる。 それを救済してくれるのは一種の「自己愛」と呼べる心の緊急避難心理で、いくらかナルシズムに偏する類。 一般には好ましからざる心境もわが心にとっては大いなる「救い」にはなっているようだ。 いくらか自己満足的にイソイソとオシャレにいそしみ、ふるまいや言動に「美意識」を取り入れて「仕事」や「遊び」に没入していると瞬間的であっても心が「癒される」のを感じる。 最終的に、絶対的に人間は一人で生まれ一人で死んで行く。 生きるヨスガを自分自身にするのも古人の言によればそれほど悪いアイデアではない。 多分に仏教的な考え方ではこれを奨励する言葉もあるくらいだ。 自然に独居独行の時間が増え、結果的にアタマの中の「騒がしさ」に反比例して表面的には沈黙している時間が増している。 週末になると一言も言葉を発しないコトもあって、これはマズいなと時々考える。 休日には終日臥床して過ごし、モノも食べず、動かず、話さず、まるで「死人」のような態である。 一種「絶望した人間」の心のありさまとはこんな具合なのであろう。 この精神的な「死人」をこの現実に何とか繋ぎとめているのはやはり仕事だ。一般的な愛の源泉である、家族とも全員離れ。それぞれ自立している。 それでも微かな「愛のようなモノ」で紐づいている人々が自分を「生かして」くれているようでありがたいことである。 やはり愛からしか活力・バイタリティーは生まれないのかも知れない。 これがあらためて最近感じている偽らざる実感である。 ありがとうございました M田朋玖 |