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■ 「お金の人」「愛の人」 | 2020.12.13 |
人間は大きく表題のように分けて捉える考え方を披露してみたい。 「お金」を人生の中心に据えて生きている人々がいる。 概ね貧しい生活を送っておられる。 一方「愛」を中心に人生生活全般を捉え生きている人々がいる。 どちらが豊かで幸福であるか・・・考えるまでもないだろう。 人間の存在、自然界の存在、人工物、ありとあらゆる現実の物質が神や人間の愛の顕現であることに気づいている人は案外少ない。 この地球、それを取り巻く太陽系、銀河系、小宇宙、大宇宙、この広大無辺の宇宙の存在からして哲学的に深考すると神という偉大な存在に行き着く。 もしかしてその解答にたどり着かないなら存在論的に思考の深度や拡がりが浅薄かつ狭いと言って良い。 科学者も多分「エセ」という存在であろう。 この世界は不思議に満ちている。 まず物理学で言うところの「万有引力」「重力」という働きが全て解明できていない。 それらをいくら精密に計測できるからと言ってその存在の理由、即ち「何故?」に解答できた訳ではない。 現在でも。 太陽の引力(重力)を愛と捉えると太陽系の惑星、とりわけ地球という星はその愛を一身に受け地上のパラダイス・・・自然豊かな水と緑の星として存在できている。 人間もまた地球の愛(重力)によって地表にとどめ置かれ宇宙の有害な放射線や飛来してくる隕石などから守られている。 これらの現実は「神の愛」と表現して何も憚ることはない。 これらの愛のエネルギーを物質に変換させた人工物の代表が現代の「お金」という「ツール」である。 これは人間同士だけに通じる単なる道具であるし、またダイヤモンドや金のように永遠不変の価値を有しているワケではない。(それらですら人間が価値づけしているだけである) お互いにその価値を共有し合ってこその道具で、それそのものは只の石コロ、金属、紙切れ、或いは預金通帳に並んだ数字に過ぎない。 それで「神の愛」や「人の愛」を中心に考えていくとお金を優先する人々の愚かさがほの見えてくる。 即ちそれそのものの本質(愛)から派生した単なるツール(お金)を重んじるという「愚」を行うことの不利益という類に目がいかない・・・ということが起こる。 子供が親の無償の愛によって養育され、教育され、社会における人間としてそこに参画して収入(お金)を受け取ることができる・・・ということは元々は「親の愛」から始まっているということではないか。 たとえば商売をする。 これはお客さん(クライアント)に愛されて初めてその提供するサービスや物品に価値が生じる。 これらのことを深考するとすべての「業」それは具体的に仕事と呼べない類であっても・・・たとえば専業主婦、母業、親業、妻業なども立派な「愛の行為」なので素晴らしい価値を有しており社会的にキッチリと認定されるべきと思えるのに存外大事にされていないように見える。 女性の愛という類は男子や子供にとって極めて価値高いモノであるのに相対的に誰もがその価値に気づいておらずその価値を有効に使おうともしておらずいささか残念に思えることが多々ある。 人間はお互いへの愛の「与え方」と「受け取り方」が一様にヘタクソである。 それは何故かというとお金のエネルギーに負けてしまうからに他ならないと思える。 お互いの価値をまやかしの愛情エネルギーを持っている「お金」にまどわされ、愛の価値を棄損させるだけでなくお金の価値そのものも有効利用できずにいる例もあって実に悩ましい。 それではどう考えるべきか。 それは常に愛をお金に優先させることでありお金もまた愛という基準で計測されるべきである。 具体的には或る人物の愛に対してあがなわれた行為によって生じた金銭であるのなら単にギャンブルや蓄財によって生じた類よりその額以上の価値を有する・・・という見方をすることができる。 生命がけの仕事をして得た1万円と余っているお金の一部の1万円では価値づけが異なるということであり、ここら辺は男女の垣根を越えてお互いに諒解しておくべき課題で、残念なことに多くの場合その金額の多寡によってのみ計測される傾向にあるのが現代の世相の嫌な部分である。 またいくら「稼ぎが多いから」と言ってその人物が立派な人とは限らず、また逆の場合も多々ある。 けれども裕福な人物は意外にも立派な人であることが多いのも事実だ。これは逆のケースが、よくマスコミの遡上に乗るし世間の耳目を集めるので、多くの人々が勘違いしている。即ち「愛の人」は一般に裕福である。 ありがとうございました M田朋玖 |