コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 17歳の心2020.12.11

スマホと財布を部屋に置いてバイクで家を飛び出すと気分はまるで17歳だ。
夏も冬もかまわず夜をさまよう非行少年。
コーヒーとタバコを買える小銭は持って出る。
コーヒーとタバコとライターはこれらの「非行」には欠かせないアイテムだ。

夜の街、夜の海、夜の山河には何らかの癒やしがある。
そこでは女の膝枕にすがって泣くような気分も味わえるし、星や月や光のエネルギーを浴びて酷い傷心を癒すこともできる。
それらを感得できる脳と感性さえ持ち併せていれば・・・。
どこも痛みを感じない、手足を自由に動かせる我が肉体を心から有難いと感じる。
「そう思えばそんな気分になる」という理屈もスッと心に入る。
50年経っても17歳になったと思うことを、相当に無理があるとも思えない。
何しろその頃とやっていることが殆んど変わらない。

趣味嗜好・行動も不変で不気味なほどだ。
タバコとバイクとエロ雑誌。
これが当時の好むところの全てで、今もそれらに変わりがないしアルコールを断ったので、晩酌とかの大人の習慣もない。夜の店とかも減ってしまって全体的に生活のリズムが少なくともプライベートにおいてはティーンエイジャー頃の傾向に限りなく近くなっている。

コロナ騒動と水害でバスケの練習が低調であるものの、我が日常を遠景すればそんな17歳の頃の毎日を過ごしている。勿論学校以外の秘密の行動であるけれど。
勿論昭和40年代のだ。

前記したコラムのとおり失恋したのでさらに自由が眼前に拡がっている。
時間的に経済的に。
それらを満喫すべく朝寝と昼寝1時間以上を自らに課して「夜の英気」を養っている。

ただし、それらの行動が凄く楽しいというワケではなく心の傷を癒やすべく、闇雲に走りまわっているに過ぎないとも思える。
少しも安らかな愛に満ちた心持ちではなく、そこには果てしのない孤独と絶望があり、それらの感覚は17歳頃の心のありようにひどく似ているとも言え、またそこにとりあえず生活の糧を得られている安心感があるのに、毎日が綱渡り的に危険に満ちているとも言えなくもない。
何しろオートバイに乗って高速道路や都会の街路をかっ飛ばすワケで、危なくないワケがない。

しかしそれらに駆り立てられる自らの心への「生き急いでいる」感覚もあって何故自分の人生がそんな風に流れているのか不思議な気もする。
いずれにしても野生のはぐれ狼のように毎夜をありもしない獲物を求めてさまよっている。
獲物が何であるかも分かっている。
ひとつの亡霊だ。

「暖かい真実の愛」

それらが現実にあるのだろうかと強く疑心を持って。こんな調子で、出逢うワケがないとも思える。

広漠とした「月下の砂丘」を行くラクダに乗った一人旅のような心のありさまだ。
フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」という作品があるがその主人公と同じような心境。
そういう悲惨な、家庭環境に育ったワケではないが似たような心理状態で夜をさまよっている感覚だ。

その映画は少年院を抜け出して海を見に行く場面がラストシーン。
その時の少年の目の憂いと光が忘れられない。
広々とした海辺の光景に希望と絶望と自由と解放を見い出したように思えた。

いずれにしても心の「放浪」が再開してしまった。
絶望という心の状態は筆者の場合「愛」へのそれであってそれ以外ではない。
何を愛するか?
その「問い」に解答されるのはやはり「ヒト」のはずなのだ。「モノ」への愛ではない。しかし。

男が機械や酒や趣味やギャンブルに「ウツツを抜かす」のは仕方の無いことなのかも知れない。
それらは愛の感情を麻痺させてくれるし、少なくとも愛の欲求を単なる「まやかし」ながら、個人の空虚な時間を満たしてくれる。
とりあえず、クルマやバイクやその他諸々の「機械」は滅多に「裏切らない」。
ただそれだけなのに、存在の価値が素晴らしく高い。
そして自分自身の心。
これに真正直に直面すると涙が出てくる。
もしかして出て来なければその人の「痛み」や「傷」は果てしなく深い。或いは「心の痛み」を全く経験したことの無い幸せ者。
どちらも羨ましいとは思わない。感情の奔流を感得出来ないなんて、生きて「ある」実感が無いではないか。

それにしても実に悩ましい老年期に入ってしまったものだ。
未来がそれほど長いわけでもないのに、未熟で痛々しい傷だらけの「17歳の心」なんて。
辛くて悲しくてせつない。

ありがとうございました
M田朋玖



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