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■ はかなさ | 2020.12. 6 |
少しばかり寄進したので奉賛会会員のカードを頂戴している。 それをスマホのケースにお守り代わりに挿し込んでいる。 東京に2週つづけて行く事になり靖国神社に参拝した。 11月29日には防衛大学の学生さん達が団体で来訪されていて参拝していた。 中でも一人の背の高い姿勢と容姿の良い学生さんは参拝を済ませ賛同の帰り道の鳥居をくぐる度にクルリと体の向きを変え、直立し、脱帽し拝殿に向かって一礼をしていた。 これらを繰り返す姿があまりにも凛々しくて美しいので年配の女性から何やら話しかけられていた。 その学生さんは長い体躯を90度近く折り曲げてその女性とにこやかに言葉を交わしていた。 その様子を見ていると今は戦時中なのかと見まがうほど良い意味での緊迫して清澄な空気があたりに漂っていてなかなか良い光景であった。 付設する博物館に入館して緑色に鮮やかな日の丸のゼロ戦52型をしばらく眺め帰郷の途に就いた。 日本人は皆、靖国に詣でるべきだと思う。 多くの英霊の方々が日本の将来を思い、国を愛し、家族やふるさとの為に自分の最も愛すべき大切な生命を捧げた・・・。 それらの人々が死んで集う約束の場所が靖国神社なのである。 今我々のふるまいややり方はそれらの人々の目線の先にどのように映じているのであろうか。 誰もお参りに来ず外国も批判を恐れ、その国の元首や指導者たちですらそこにお参りすることを「ためらう」。 これは実に嘆かわしい事態であるのだ。 そう述べている筆者ですら若い時にそのことに思いを致さなかった。 そのことが今恥ずかしい。 「靖国で会おう」 この合い言葉の意味は「私は仲間達と共に国の為に死んでゆきます」。 こういう文化や意識を持った民族や国民は世界中見まわしてもそうそう発見できない。 奉国・・・本当の意味は自分の生命を捧げることそのもの。 それらの象徴としての靖国神社が存在するのであれば日本人の総てが覚醒してそこに立ち寄り魂の安寧を願い、祈りを捧げることに何のためらいが要ろうぞ! 人生は「生かされて生きている」。 「頑張って生きるモノ」ではない。 大いなる誤解は自らが神仏や宇宙のエネルギーを頂戴して生かされていること・・・これは水や食物しかり・・・宇宙のエネルギーそのもの・・・を明瞭に自覚していれば神仏が何かしら霊的な存在に思いを致し、そのお力を借りることを最良の幸福な人生への早道であることもまた知るべきかも知れない。 時は移り齢67歳。 60代後半に入らんとする自分の生きて来た半生を思う時、その「はかなさ」をいつも救ってくれているにはやはりそのものズバリお「はか」なのだ。 お墓というものを無理やりに母親から建立させられた時、最初は不承不承であったのに今はこれほど有り難い類の存在は無いとつくづく感じている。 それは自らの出自と終末のカタチをそこに見い出すからであり、また子孫という未来の存在の中継地ではないのか。 ただ単に納骨する場所ではない。 その恭しく建てられた石造りの建造物の有難さは日本人にとっての靖国神社に似てはいないか。 まさに生命がけで「無償の愛」で育ててくれた両親への御礼をカタチでも出来たのはお墓しかないのだ。 日本人としてその平和や豊かな暮らしを享受できることへの感謝を捧げる「場」としての件の神の社と自らの持つ墓所という「場」。 これほどありがたいモノはないと思うのだけれど・・・。 「はかなさ」とはその音のとおり「おはかのなさ」にちがいないと真面目に考えている。 「はかがない」と人生が「はかなく」なるのである。 そういう感覚をお持ちの方なら尚更に靖国神社へ足を運んでみるべきかも知れない。 何らかの精神的・肉体的パワー、エネルギーをチャージ「受け取る」ことができるかも知れない。 ありがとうございました M田朋玖 |