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■ 10月下旬の雑感 | 2020.10.29 |
66歳にして初めて鮮明に気づいた自分の「性癖」を知って或る意味強烈に愕然としている。 中身については一生他人には言えないし墓場まで持っていこうと思っている。 「ソレ」はしかし個人的には相当の重みがあって、少なくとも自分の「恋愛物語」の「最大要素」なのでたった「それくらい」と思う人が多いかも知れないがこれは寸毛も譲れない厳然とした「好み」で、現在交際中の女性にも「そうでない人」にも絶対言えない。 また言わないつもりである。 しかしこれを知ってよかったこともあり、たとえばレストランに行ってメニューを見た時に「ソレ」を基準に他を全て除外できるので選択が絞られて非常に楽だ。 逆に「ソレ」がないとどんな空腹でも「受け付けない」。 これはハッキリと断言できる。 「ソレ」がご当人の意志で失くなった時には残念ながら「千年の恋」も冷めてしまう。 それほど「重大」であることに気づいて、妙に「冷め切った」気分になって物事を冷静沈着に眺められるようになった。 また「愛が冷めた」一番の原因も「ソレ」であったことに我ながら情けないとは思うけれど「性癖」「性的志向」なので仕方がない。 逆に「ソレ」がふんだんに或る女性にはいくらか女性としての魅力が欠けていても「付き合う」ことはできる。 即ち「許せる」。 実にクダラナイ内容なので誰にも話す気はないが。 米津玄師の歌「馬と鹿」のように♪あまりにクダラナイ願いが消えない、やまない♪ この歌にピッタシの我が性癖である。 このあたりの「好み」のこだわりが増えてしまって或る意味とても気楽だ。 性欲の減退は相変わらず少しも起こらず精力の減弱があっても「それそのもの」(性に対する興味関心)が身体中に充満していて「人生をバラ色」に染めている。 ありがたいことだ。 ところで最近始めたYouTubeの映像を見るとネクタイの胸元をしきりに触れる、メガネのツルを調整する、眉を上げる表情などの「癖」を発見できて嬉しい。 自己調整というのはナカナカ難しいものだ。 人間は嫌いになると「癖」から先らしいので「無癖」の方が嫌われにくいと考えるとこの自らの「癖」の類は急いで修正して普通にしておくことが望ましいと思える。 それはすごく難しいとも考えられるし、実に簡単ともとれる。 とは言え、この「性癖」というか性的志向というモノは相当に人生を支配的であるようで、幼少期から老年期に入るまで自分の行動がソレに制限され、コントロールされていることは近頃痛切に感じている次第だ。 多くの人の評伝・伝記などを読んで・・・例えば・・・著名な「文人」たちの私生活や逸話などを観察していると自分の性癖なんて全然大したことないと思えてひどく安心する。 世間的に「偉大な人達」とされる人々ですら個人としての「人間」として考慮すると「みんな同じじゃん」みたいな感覚になって同じように深く安心する。 みんな同じなんだ。 現在の「コロナ騒動」にしたってマスクとか消毒とかソーシャルディスタンスとかの「行動制限」は全く意味がない。 地球上にはウイルスだけでなくさまざまな病原体が健康増進的細菌類であふれかえっていてそれら、それぞれの立場で地球上に存在し「共同生活」をしているワケで、人をして病原体の巣窟と見なして警戒するというのは愚かなことだし「オカシイ」と心から感じる。 入店の際の体温測定とか発熱者は病院などの医療機関に入れないことの方がはるかに異常事態だ。 世間の人々やマスコミや行政は「気がオカシク」なったんではないかと見まがうほどだ。 「情けない」 人類はこれほど「おバカ」になってしまったのか。 物事の本質や実態というモノをいっさい考えずテレビや報道された内容を盲信しせっせと「コロナ対策強化」などという「まやかし事」に明け暮れて、世の中をひどく住みにくくし人々の生活、経済活動を著しく制限している。 「人間の性癖として」自分だけ助かりたい、病気になりたくないなどという自己保存欲求と集団欲求というのがあって、皆さん「右にならえ」的に一様に「コロナを恐れる」という態度に終始しておられるようだ。 という考えても「オカシイ」と感じられる世情であるが「長いモノには巻かれろ」的な反応は個人的にしたくないのでいくらか周囲の「ヒンシュク」を感じながら自らの信念を貫いている。 何故ならそちら(長いモノ・・・)について「恥ずかしい」と感じるからで「初詣」はひかえましょうとか東京からのお盆や正月の帰郷はやめましょうとかのキャンペーンをテレビがしているが個人の人生を豊かにしたいと思うのであればそれらの「促し」に決して「乗って」はイケナイ・・・と考えている。 ありがとうございました M田朋玖 |