コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 幸福な男女2020. 9.27

現代社会は昔より男女関係について正調な例が減って来て、それぞれが無意識的に、お互いに自らの幸福感を落下させているように見える。
これはひとえに家庭や学校における教育の内容に依拠すると思われるし、社会のあまり正調でない「圧力」か「要求」があるのかも知れないと考えている。

過去に女性が長い間虐げられて来たという歴史があって、選挙権をはじめとする多くの女性の権利の確保、あるいはまた「女性解放」という言葉も出現してそれらを成し遂げた女性達は今でも「偉人」として讃えられている。
いくらか大変結構なことだと思うが功罪もあると考えている。

近年は「男女共同参画社会」という言葉も造語されていて個人的な印象としてはあまり愉快な傾向ではない。
男女ともそれらの傾向によって必ずしも幸福になったとは思えないからだ。
男女にはそれぞれに備わった特性というのがあって幼い子供や超高齢者ならともかく、イヤそうであっても男女とも本質的に「らしく」というのが理想の姿でないだろうか。
最近は「LGBT」という人々もおられてヤヤコシイが、それでも人間の幸福を追求すると「男女の愛」「男女の幸福」というカタチが人類の成長発展の根底にあって存在できているということを常に念頭に置いておきたいものだ。
そしてまた個人的にもそれらの事柄に深く「心惹かれる」。

まず自分自身の存在からして両親という存在とその類の行為「男女の営み」があって生じているワケで、どんな人間も「存在論」としてこれらの事柄から逃れることはできない。
つまりどんな人にも「父」や「母」が「在る」ということである。
当たり前の話だ。
ついつい忘れがちだが皆さん「独りで生きている」と公言されたりもする。

近々は「男女の営み」についての欲求が衰え、それらの諸活動が無ければ人類は滅亡してしまう。
現代ではクローン人間とか精巧なロボットとかがあってさまざまの生命科学の進化もあり、これまたヤヤコシイがそうであればさらに古典的な普通の男女関係が尊く素晴らしく思える。

こういう前置きをして語る男女の幸福というテーマについての多くの人の考え方・感じ方は殆んどよく整理されていていないように見えるのでここにあらためて自分の考えを記してみたい。

人間の生命活動として飲食と同時に「生殖」という営みは人類の生成発展の為に必要不可欠なモノである。
人間模様を語る時、この男女関係ほど多くの問題の「原因」であり「結果」であり、はたまた人生の「経過」としてそのことそのものが人生の目的のよう思えることもある。
それほどに重大な問題であると言える。

さて「幸福な男女」を観察していると或る意味極めて「定型的」であることに気付かされる。
それは世界中の男女、アフリカや南米の奥地で生きる原始部族であれ都会の豪華な高層マンションに住まうセレブな人々においてすら例外なく「愛し合う男女」があり、その間に「子供があり」「時になし」平々凡々とした日常を暮らしている。
寝食を共にし或いは別々であってもコトそれぞれが「愛し合っている」ということについては誰も異論はないと思える。

その男女関係の正調で定型から外れるとそれが時には大きな混乱を生み出し、はたまた強烈なエロスを醸し出す。
異端、背徳、猟奇、変態というモノは時に素晴らしいエロスの世界を人々に展覧するのだ。
それでそれらの正調でない男女関係が人間をして「激しい恋」へと誘う。
これらにまつわるさまざまの物語が文学・絵画などに著されて多くの人々を魅了する。
こういう男女の「物語」を読むにつけ、知るにつけ、観るにつけ多くの人々、男女は瞬間的に大きな「勘違い」をするのだ。
異端であることが「喜び」「であると・・・。
そして少しずつ正調さ、平凡さから逃れたくなり苦しい道を選択し行動をしてしまう。
それらは多くの「男と女の愛の物語」を生む。
待つ、耐える、見守る・・・このことが深い愛の本質と思えるほどに「真の愛」とは意外にも消極的で「受け身」だ。
これはこれからの宇宙規模の変化が起こるとされる人生の在り方、男女の在り方に大変参考になる法則で「いつまでも待てる男女」をもってして本物の男女関係、真に愛のある男女関係ではなかろうか。

幸福な男女関係は、多くの社会の圧力や混乱や困難を乗り越えつつも忍耐強くお互いを信頼し尊敬し相手の存在「まるごと全部」を引き受けることのできる男女に限って与えられる類の極めて崇高な「人生の喜び」であると思うのだ。
そのことを「知っている」男女はあらゆる宝玉や財や若さや美でも「あがない」きれない素晴らしい宇宙のギフトを与えられた者共に違いない。
それと自覚し味わうと決めさえすれば「脳」や「心」だけで誰でも味わうことができるのではないかと。
さらにパートナーのあるなしに無関係ではないかと。これはあまりにも楽天的な論とも考えない。
少なくともこの文章を読んで何らかの「思い」を感じれたならそれを味わう「素質」があると思える。幸福な男女のそれを。また人間として生まれたなら誰でもこのオソロシク定型的で普遍的なテーマから逃れることは出来ない。

全ての人間は瞬間的にしろ継続的にしろ「幸福な男女」がこの世界に存在し行動した結果として誕生している。即ち一方的か相補的かに関わらず「愛」があったのだ。そのことを多くの人が忘れているように見える。

ありがとうございました
M田朋玖



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