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■ 義務 | 2020. 7.16 |
コロナどころではない。 当地熊本県の最南端の盆地町・人吉市は戦後最大の災害の被災地となった。 幸いにして被害を免れた企業、特に医療機関としてはこの災害を受けた地元に対して最大限の貢献をすることが義務と考えている。 これらの行動をするにあたって次の点を配慮している。 @本業を平常どおり粛々と行うこと。 これは人々に強い安心感を与える。 「あそこは開いている」 混乱を避けて罹災していないコンビニなどさっさと閉店しているところがあるが、これは見た目がものすごく悪い。 人手の問題等あるのであろうが食料品など物資供給などに「責任」があると思うのだ。 これは悪い見本。 危機に際してこそその「人格」が問われる。 これは個人も企業も。 いかに「自己犠牲的」にふるまえるか。 A被災された方が何をどういうカタチで出来るのかよく考えて提供していくこと。 @の点でも充分とも思えるが余力があってもなくてもこれを果たして行くべきであろうと思える。 スピード感をもって。 B常に優先順位を意識すること 「今何が一番大事なことか」 これを人間はすぐ忘れる。 どうでも良いこと、自分に出来ないことを考えたり行動にうつしたりしやすい。 これをマチガエルとトンチンカンな「ふるまい」になってしまう。 特に自己の「利益誘導」など厳に控えるべきである。 物凄く見苦しい「火事場ドロボー」と同じである。 イヤ「火事場・・・」の方がまだマシだ。 それが生きる為の唯一の手段であるなら許せる気もする。 以上の3つの点を下達している。 まとめると@本業を平常どおりしっかりと行うことA貢献できることを優先順位に沿って実行する。 B利益誘導を絶対にしないこと。 自らの義務を忘れ権利ばかりを主張する人が多いが義務という言葉はあまり使われない。日本国の憲法には国民の義務がキチンと謳ってあって、三大義務はご存知のように(1)教育(2)勤労(3)納税だ。 (1)の教育とは子供に義務教育を「受けさせる」義務。 日本国民として生きていくには至極当然のことである。 日本語が話せる、聞ける、書ける、計算ができる、日本や世界の歴史や文化伝統について正しく知らないで日本人と言えるか。 また(2)の「勤労」についてはキリスト教のように人間の罪の「贖罪」の為の苦役と考える、或いはイスラム教のように労働を「不要」と捉えて家族との団欒や「祈り」より下位におくことが常識であるらしい。 普通の日本人からするとトンデモナイ。 勤労は個人が社会に貢献し、その見返りとして金銭や物品などの物資を恭しく頂く或る意味「神聖な行動」と個人的には捉えている。 つまり「世の為、人の為」に尽くす、貢献する為の大事な「道具」であり通路である。 人間が孤立せずに生きていけるのは種々の集まりや家族、地域の活動もさることながら仕事や勤労に優るモノではないと常々考えている。 いつの頃からか人々は「勤労」を厭うようになった。 これはメディアの新聞か。 書物などにも「額に汗して勤労する人」を阿呆みたいに述べる人があるがこれはオカシイ。 人間の存在として現時点で「勤労」がこの世から消失して果たして幸福になれるのであろうか。 日本国の法律にこの「勤労」を尊いものとする思想がうかがい知れて個人的にはいたく満足している。 人は「人との関係性」によって「人間」となる。 「社会との関係性」と言っても良い。 スポーツ選手も芸能人も最近流行の「ユーチューバー」にしろ「ゲーマー」にしろ、観てくれる「人」があってこその「仕事」だ。 こういう仕事も「勤労」には違いない。 肉体労働者や単純労働者、給与所得者などを軽んじる人も最近よく目にするが、こういう人々は個人的に最も嫌いなタイプだ。 お金をいくら持っているからと言って、いくら巧みに稼いでいるからと言っても全く尊敬の念を感じない。 人に与えることを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとすることを人間としての「義務」として果たそうとする人間に対して心に深い尊敬の念を感じる。 危機の時、苦難の時ほど心にこの人間としての「義務」をあらためて思い起こし言葉を発し、行動し、ふるまって行きたいと心から思う。 今この危機に際し。これは言うは易し行うは難しの典型。いくら考えても解答がない。 禅問答が、いくらか参考になる。 「池に落ちた子供と母親、どちらを助けるか?」 答え。「近くの人から」だそうだ。 つまり出来ることをさっさとする。余計なことは考えるな。ということらしい。「義務」という表題も何だかわざとらしくてアザトイ。それでも自分はこの言葉で鼓舞される。何故だか分からない。 ありがとうございました M田朋玖 |