コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 号泣2020. 7. 8

先夜、6月の晩。
そぼ降る雨の高速道路上。
運転しながら10数年ぶりに子供のように号泣をしてしまった。
或る出来事の為による傷心状態も手伝ってか、この嗚咽を伴った流涙と「号泣」はいくらか心を軽くしてくれた。

小田和正の初監督作品映画「いつかどこかで」で藤原礼実扮するヒロインが自ら運転する赤いスポーツカーの中で涙を流すシーンがある。
これは映画のクライマックスでもあるがこのシーンと同じ類だと想像してもらうと有難い。

この「いつかどこかで」のこのシーンは世界的名作「ニューシネマパラダイス」の感動的なラストシーンに匹敵するくらいのレベルと個人的には評価している。
車中の号泣シーンという作品は世界中探しても多くはない。
いずれの作品も「人間の愛」に気づかせてくれる名カットでこれらの映画の共通の命題「愛の物語」をごくシンプルに示してくれている。
それも男女の愛について。

そういう心境を久々に味わった。
結果的にあらためて人生の指針がしっかりと心に落定してスッキリした。
愛と幸福は殆んど同義語で人間の場合、特に「愛なしで幸福になる」ことは出来ない。
もっと言うなら愛があってこその幸福なのである。
人間の諸々の活動の中で思いの外このことがよく忘れられる。

多くの人が神の愛、自然の愛、人の愛、社会の愛・・・ありとあらゆる類の「愛の中で生かされている」ことに気づいていない。
人々の顔や振る舞いや表情をツラツラと眺めているとそんな感想を抱く。
「愛」を「受け取っている」もしくは「表現している」人はそれほど多くはないように見える。
生まれたての赤ちゃんくらいであろうか。
無条件の無償の愛。
そのことを自然に受け取り正直に感情として表している時に人間は素晴らしい幸福感を味わう。
カラダが宙に浮いたようで羽のように「軽い感じ」を感得することができる。
この時にどうでも良い理性、考え事などが心の中に入り込む隙は無い。
逆に現代の人間社会は余計な屁理屈、倫理道徳感、勝手な思い込み、それぞれの観念や信念などあらゆる理性的「脳の働き」が愛の感得を阻害することも多い。
この傾向は結構厄介だ。

さて具体的な自分の「号泣体験」法を披露してみたい。
勿論「万人向け」ではないことは前提として読んでいただくと有難い。

自分の愛の「感情、体験」をした音楽(これは殆んど音楽が愛のメッセージであるけれど)を選んで大音量で流す。
それと同時に「アナタの欲しいモノは何ですか」と口に出して何回も何回も繰り返す。
自分の場合不思議なことに自然に涙が目から溢れ出し、感涙し、号泣に至る。

そうしてあらためて気がつくのだ。

「愛が欲しい」と。
「愛だけが欲しい」と。

因みに筆者の使用する音楽は映画「殺しのドレス」もテーマ曲。これは或る自己啓発セミナーで心に刷り込まれたせいかも知れないが、試しにそれらの経験の無い人に実践して貰うと同様な結果「涙」を実現できる。不思議なことだ。他に「ニューシネマパラダイス」愛のテーマなど。
実のところ心にフィットすれば何でも良いのではないかと考えている。
心が、テンションレベルが幾分下がって沈み気味の時、音楽や映画がよく心に響き同調し仕事やプライベートも落ち着いたしっかりとしたモノに出来る気がする。
心の落ち着きや静寂には少しだけ悲しみの蔭が潜んでいるのであろうか。
「喪失の痛み」は悲しみの代表例であるが人生の絶対必要要件かも知れない。
人生は日々何かしらの喪失の旅なのだ。
人・モノ・お金も若さや美もそうであるが何よりも確実に人生そのものと言える「時間」の喪失。
時々それらの悲しみを爆発させ号泣するのも心やカラダに良いことと思える。
所謂「ガス抜き」。
「ヒトは涙とともに成長する」金言に違いない。
自分もこの大涙で少しは成長できたかも知れない。

ありがとうございました
M田朋玖



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