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■ 「Fukushima50」 | 2020. 3.14 |
戦争になった時「国を守るために戦うか」の問いに我が国の若者は11%しか「戦う」としなかったとのこと。 これは先進国中最低だそうである。 現在の日本人の状況を一見すると或る程度予測できる数字で、今の「反日メディア」「非戦憲法」信奉の流布などあきらかに亡国的な人々の「洗脳」による個人主義への精神的偏りの結果と思える。 今日は3月11日。 東日本大震災発生の日だ。 9年前の今日、地震によって生じた大津波は福島原発に甚大な被害をもたらした。 最悪の事態・・・原子燃料格納庫爆発・・・になると首都・東京を含めた東日本の殆んどが同地域の放射能汚染により5000万人の避難、国土の多くを放棄せざるを得ず、日本国に壊滅的な打撃を与える可能性があったそうだ。 当地九州ではやはり地勢的に「対岸の火事」感は否めず、原子炉建屋の爆発をテレビで観ても強い恐怖などは抱かなかったものだ。 「アラアラ〜みたいな」呑気なものだが福島県を中心とした東北・関東以外の地域の人々の心の反応は概ねそのようなレベルであったろうと思える。 不思議なことに3月8日(日)の集団ツーリングでは鹿児島県知覧町の「特攻平和祈念館」を自ら提案し久々に入館し帰宅してから「Fukushima50」のノベライズ本と原作本・門田隆将氏のドキュメント小説「死の淵を見た男」を購入し2冊とも併読して感涙した。 彼らの活動・・・原子力発電所にとどまって自らの危険を顧みず何とか被害を「制御」しようと頑張った人々の奮闘ぶりを物語として読むと上記した「11%」が腑に落ちない。 生命がけの建屋内突入、原子炉爆発の危機を顧みず放射能汚染の恐怖に怯えながら「「原発制御」の為にそれが「落ち着くまで」戦った勇気ある人々の存在をあらためて書物で読み、感動と共にそのように考えたワケである。 件の事故の関係者の丹念な取材によって書かれた作品が下地になって出来上がったドキュメントの物語から読み取れる最大の感想は日本人の持つ「自己犠牲の精神」だ。 自然に戦争末期に行われた「特攻作戦」に思いを馳せる。 物語の中でも「決死隊」とか「俺と一緒に死ぬのはどいつだ?」とかの言葉が同原発の所長だった吉田昌郎の口から発せられている。 映画も小説も同事故の現場は戦争中さながら。 またそれらの雰囲気が同じ日本人として全く違和感がない。 国や郷土を守る為に生命をかけて自らの職責を果たそうとする男達の奮闘に感動しない筈がない。 人間は「イザという時」「窮地に立たされた時」その本性を曝け出す。 まるでかつての「特攻隊」の魂が乗り移ったかのような心根、決断と行動を思う時、日本人としての誇りやお互いへの篤い信頼に考えが及ぶ。 日本人同士で細かい説明が不要なのだ。 そういう強い責任感と絆を持った人々が日本だけでなく世界中にそれぞれの仕事に携わっている。 「自らの仕事を全うする」ことが「生命がけの行動」になる場合がどんな職業にもある。 それらの場面に立たされた時、その人間がそれぞれの立場でどのように判断をし、決断し、行動するのか。 試されるのはいつも勇気と人間性。 一見おだやかで優し気な人間が危機に際し国の為、人の為、自然に「生命を尽くす」。 そんな姿を見せられるにつけ、人間という存在の不思議さに思いが及ぶ。 自衛隊、米軍、民間関連企業の人々・・・それらのすべてが自らの良心と隣人愛で繋がり秩序だった美しい行いが多かったとされる同災害。 表題の「Fukushima50」は海外のメディアに呼称された世界最大の原発事故に際し勇気をもって現場にとどまり「守った」人々を讃える尊称であるらしい。 「なぜ日本人はそのような行動ができるのか?」と。 日本人の文化、もっと言うなら「遺伝子」に違いない。 何故かいつも試される日本人。 世界初の被爆国。 未曽有の大津波と原発事故。 脱炭素というエネルギー危機における相変わらず「火力」依存に頼らざるを得ない国内事情は中国・韓国のように「原子力」発電を無闇に推し進めることのできないメディアとそれらの振りまわされる民心にある。 再生可能エネルギーへの転換には「時間」が要る。 その時間稼ぎにはどうしても「原子力」に頼らざるを得ないのではないか。 ドイツのような原発ゼロは綺麗事。 原発大国フランスから電気を買ってしのいだのだから・・・。 ありがとうございました M田朋玖 |