コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 瞑想生活2020. 3.11

久々に瞑想を習慣にすることにした。
夜の午後9時と朝起きがけの10分〜20分程度。
結構、心もカラダも気持ち良くなるので30分から1時間近く「してしまう」ことが多い。

個人的に瞑想の歴史は長い。
大学時代に「座禅」に興味を持ち、それに関係する本をかなり読んだ。
座禅、TM瞑想その他諸々の流派(?)による瞑想法があって入り乱れている・・・ように思える。
当時も今も。
若い頃は何の目的で始めたかというと「何らかな心の救済」を求めていたようだとおぼろげながら記憶している。
何かしらの瞑想の御利益があったかというと学生時代の実感としてそれほどでもなく遊興事と勉学の間を若者らしく往来し、心をいつも凡俗で低レベルの欲望で充満させ「悟り」とか「覚醒」を得たワケではなかった。
ただ身内には自然に起こった興味関心の方向の先のひとつに瞑想があったに過ぎない。
瞑想については試行錯誤の段階だった。
今もそうである。
医者になると数年間は仕事の多忙さにかまけてまともな読書もせず、勿論瞑想などスッカリ忘れてしまった。

或る苦しい出来事から再び読書を始め、同時に瞑想も時々やってみるようになった。
座禅や瞑想についてのホンやCD・テープなどを購入して熱心に聴いたり実践したりしたが丁度36歳ごろにはそれに凝り出して朝から瞑想テープを聴いて仕事をしたりセミナーに行ったりというように習慣化した時期もあった。
その頃は心もカラダも軽いトランス状態になって一挙手一投足に「喜び」がある。
この状態は或る程度意識して集中していないと崩れてしまうようで、夕方からアルコールを飲み出したりすると若干良い気分が落ちてくる。
この習慣は3,4年つづいたが自然にやめてしまった。
何となくメンドクサクなったのである。
瞑想テープとそれを聴く道具(カセットデッキ)を持ち歩かねばならず、朝の貴重な時間の使い方を怠慢して朝寝に切り替えた為と思える。
この習慣は思い出してみるとかなり良い影響を人生に与えたようで、することなすこと順調でうまくいくし、また何をするにも良い気分で行えるので一日が素晴らしく快適だったように思い出す。

同じくセミナー仲間でTM瞑想を実践していた男は地元で事業を立ち上げ、しばらく大成功をしてチョットした「エグゼクティブ」と自称するほどまでになった。
別の瞑想仲間で、熊本市内で病院の経営をしていた女性は老健施設や他のシルバー施設、ホスピスなどを立ち上げ成功したおられた。
韓国の某市で行われた合同瞑想セミナーに同行した時には「師」に瞑想すると「何故事業も成功するのですか?」などと尋ねていたことを思い出す。

今や「経営の神様」とまで呼ばれている京セラの稲盛和夫氏も天風会の会員で、瞑想と同じような精神修養の方法で「安定打坐法」とか「神人冥合」とか。
その境地も「えも言われぬ素晴らしい境地」を体得されたとのことでそれぞれの方法で瞑想や座禅に類することを求めて意識して実践しておられるようである。
この当時には同じような「瞑想人」との出逢いも多く、著書や著者などをカウントするとかなりの数に上ると思われる。
瞑想家達が自然に引き寄せられ集わされている・・・というような態であったことが思い出された。

令和2年2月に再度始めた瞑想習慣も以前のようなトランス状態は得られなくても「気持ちが良い」とは感じるようになったし、何らかのエネルギー充電と自覚できるようになった。
少なくとも「それ」に飢えるように毎夜、毎朝の瞑想を求めている。
何がしかの「苦痛」から逃れる為のただの手段のような気もするし、或る種の崇高な力や英知、エネルギー、神と呼べるような神々しい世界と繋がる妙法と思える。
アインシュタインやトーマス・エジソンも優れた瞑想家だったらしい。
ローマ帝国五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスの「瞑想録」は瞑想によって得た知恵を書き残したものである。
瞑(目を閉じる)、想(思いをめぐらす)。
単純に見かけ上はこれで良いが意識を何かに「集中」する必要があり、多くのそれはマントラ(呪文)を唱えるとか呼吸に集中するとか半眼でローソクの火に集中するとかの方法がある。
また注意点として背筋を伸ばすという姿勢の問題も必須であるようだ。またアタマを空にする作業とも言える。

「冥土」「冥途」はご存知のようにそれぞれ死後の世界とそれに続く道のことである。
死後の世界イコール神の世界と考えて、字面を見ると「瞑想」を「神との交流」と見ることも出来るし、そのような行為とズバリ直言している成書もある。

ありがとうございました
M田朋玖



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