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■ 気を遣う | 2020. 1.31 |
この頃は人に「気を遣う」ことは何か「良くないこと」のように自覚し表現する人が巷でも書物でも耳にし、目にすることが多い。 人間が成長し仕事をするということは人に「気を遣う」ことも大切な要素ではないだろうか。 業種によっては「気を使ってナンボ」という仕事もあると思うのだ。 心理的には、この「気を遣う」も2種類に分けられる。 自分を殺してイヤイヤ仕方なしに「気を遣う」類と、喜んで進んで或いはクールに割り切って「気を遣う」行為だ。 心理的には前者はネガティブで後者はポジティブ。 苦痛の有無、気分の良し悪しとしては天と地ほどの差異がある。 実のところ「気の遣える人」イコール「気の利く人」と言い換えても良いだろう。 気の利かない人を有能な人間として取り立てる経営幹部、経営者、雇い主、顧客は多くはないであろう。 いずれにしても「気の遣える人」は人から重宝がられ重用される傾向がある。 これは万人が肯定する人物評価の無意識的な状況と思える。 ところで「気を遣える人」「気の利く人」を育てるにはどうするか。 これは幼少期の問題で成長した大人については出来ないことはないが時間がかかる。 基本的に非常に難しい。 気の利かない人は一生涯「利かない」という可能性が高い。 けれども不可能ではない。 丹念で執拗で熱心で継続的な教育で少しは「マシ」になることがある。 その潜在能力を見抜く眼力が要るが、その人物の「運」とか「めぐり合わせ」というのも重要だ。 鼻から無能な人間として扱われ、簡単に切り捨てられ、本人も全く自覚がないことがよくある。 生来的に「鈍い人」がいるが、これも「気を遣えない人」と見做される向きがある。 けれども鈍い人でも幼少期からの激しい親や教育者の鍛錬によって「気を遣う」人間、大人になる可能性が高く、むしろ本来は鈍い人が「気を遣う」人になる方が誠実に見えたりしてより好もしいと見做されたりすることもある。 神経が細くて細かく気を遣う人がいるが、人によっては鬱陶しいと思われる。 逆に神経が図太くて「気を遣える人」。 これが理想の仕事人、職業人、家庭人なのではないかと考えている。 ここで子育て論において少し述べてみたい。 或る子育ての巧みな人の言をお借りしてみた。 多産でいっぱしの社会人として女手ひとつで育て上げた女性も言行であるので説得力が高いと大いに賛同しているワケであるがこの方の子育て方にこんな一節がある。 「3歳までは充分に与える、子供に気を遣う。3歳を過ぎたら子供に親への『気を遣わせる』」というモノでナルホドなあと深く得心したワケである。 甘やかされる子供の「成れの果て」が惨めな成人(男女に関わらず。特に男性)と考えると子供は大人(親)に「気を遣わせる」というのが教育上好もしいのではないかと思える。 何しろ社会に出たら「気を遣う」ことばかりである。 或る意味「気の遣い」競争みたいな一面がある。 気を遣いすぎて萎縮するのもマズいが「気を遣えない男性」の中年以降の見た目や身分、地位の悲惨さは目を覆うばかりだ。 特に本人の自覚がない分、惨めさが際立つ。 このあたりはキチンと整理して理解しておきたいものだ。 自分が「気を遣えない」人間と客観的に自己判定したらただちにあらためるべきである。 少なくとも純粋にプライベートな時間以外は・・・。 「男には七人の敵がいる」というのは昔の諺だが、先日の年末年始に観たゴッドファーザーパートTでマーロン・ブランド演じる初代ゴッドファーザーが少しも「気が抜けなかった」と引退後に漏らしたのが印象的であった。 「気が抜けなかった」イコール気を遣う、気を入れる。 しっかりした男の成人は常に危機感を持ち社会という荒波を泳ぎきらねばならない。 そういうものなのだ。 自分を守り、家族を守り、会社や組織を守る為に。 ありがとうございました M田朋玖 |