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■ 傷ついた!? | 2020. 1.28 |
人間関係の基本的問題で、人の言葉で「傷ついた」というのがある。 心理的に純粋には「言葉で人を傷つける」ことはできない。 けれどもこの言葉は一般に広く信じられていて、この「考え方」を訂正するのに「ひと苦労」する。 「当たり前」と考えている人が多い。 確かに言葉には強力なチカラが宿っていて、たとえば100人ほどに次々と「アナタ顔色が悪いよ」と真顔で言われるとホントに病気になったり死んでしまったりする・・・とモノの本に書いてあった。 身内、親子など親族を含め他人のアタマの中で生じた勝手な思考や感情、またそれに基づく発言などには基本的に深い関心を寄せる必要はない。 特に自分にとって有害な類は聞き流す、読み流す、聞かない、読まない、吟味しないという態度がコト快適な人生には肝要だ。 所詮他人事。 たとえ自分のことがその内容に含まれているとしても。 これは図解にすると理解しやすいと思えるが想像力を最大限に発揮してこの理屈をご理解いただくと幸いだ。 漫画をイメージしていただくと良いかも知れない。 二人の人間が会話をしているスピーチバルーン(言葉の吹き出し)の中身はその発した人物のモノで聞いている人のモノではない。 その発せられたスピーチバルーンの中身を自分と「同視」する必要が果たしてあるのであろうか。 殆んど全くない。 相手の言葉は相手の言葉でそれ以上でもそれ以下でもない。 相手のソレ(スピーチバルーンの中身)についての自分の解釈はいかようにも選択できる。その選択肢とそれらについての「自分」の思考や感情の選択権、主導権を決して手離さないことである。 日常的に自分の思考や感情などアタマやココロの中身の全責任を自分で負うという決意をして実践実行すること。 このやり方に気づいた時、一種の爽快感を味わう。 もしかしてこの感覚を味あわなければまだ腑に落ちていないということになる。 言葉を含め 「あらゆる事態に対して自分の解釈についての全責任を執る」 という心の態度は何事にも何者にも恐れを持たずに生きていけるという自信にもつながる。 そういう「基礎的前提」の上で相手や他人の言動やふるまいに対して、同情したり共感したり自分のふるまいや言動についての、反省をしたりすることは大変結構なことだ。 それでも「基礎的前提」だけは基本的に崩してはイケナイ。 これが良好な人間関係の為の心理的「手続き」だ。 他人のスピーチバルーンを瞬間的に自分のモノとして受け取り心や感情をかき乱してはならない。 いつも平穏で爽やか、良好な気分で人生を過ごす為に・・・。 これは或る意味それらの為の絶対要件と考えている。 この一文が、何事か或いは他人の言葉で「傷ついた」と感じたり苦しんだりしている人々の心の救済の一助となれば幸いだ。不快に感じた人も少しだけ時間をとって一考して貰うと嬉しい。 ありがとうございました M田朋玖 |