[戻る] |
■ 理念(コンセプト) | 2019.12.21 |
人間の最も危険な状態は落ち込んで沈んでいる時ではなく有頂天で調子のよい時である。 野球界の元巨人「絶好調男」中畑清もそのテンションの割にはパッとしなかった。 やはり「深沈厚重」を最良の徳とする中国古典(「呻吟語」−呂新吾)の言葉どおりだ。 因みに第2の徳は磊落豪雄、第3は聡明才弁。 さて医者の、それも有名・著名な医者の陥りやすい罠が診断に自信を持ちすぎるというモノである。 それも出来るだけ少ない診断名・・・できることならひとつ・・・。 これは「聡明」さを売りにする医療界の悪弊と言える。 結果的に医学教育の中でも割と定型的に、丁度サスペンス小説やドラマの謎解きのように診断(犯人)をひとつ的中させ、それですべての症状を説明しようとする「傾向」と「方針」。 これは診断した医者に一種の自己満足的で麻薬的快楽をもたらすので結構厄介だ。 この傾向は或る意味で正しく、別の意味でマチガッテイル。 たとえは悪いが犯罪者、特に殺人事件の首謀者とその関係者についての真の「動機」にしても金銭トラブル、怨恨、嫉妬などや単に発作的・衝動的など心理的に追及すると重層的で多面的で複雑な「心象」を見出だすことができる。それらを取り上げたドキュメント本などを読むとこのことが、ありありと浮かび上がってくる。 同じように病気の病状や疾病の病相などについてもこれらの理屈が当てはまり、決してひとつだけだとは思えないことが多い。 それでも敢えて自分のつけた診断名に拘泥するのであれば「名医」と謂えども結果として「悪医」と言って良いかも知れない。 これは当然治療法にも関連してくる。 頑なに自分のスタイル、手法手段に固執して他医の治療をアタマから否定するという態度は当の患者さんにとって好ましくない(あってはならないこと)・・・と考えている。 どんな事態にも柔軟に対応できるのが良医の特質であり条件なのではないか。 患者さん本人のみならず家族、職場、或いは他医療機関、現場の医療スタッフから細かく情報を集め集約統合して受療者にとって最善の治療方法を模索し決定するというのが医療行為の「王道」と思える。 たった一つの病名や診断名に基づいて、治療を固定的に準拠させるのは危険なのではないかと考えている。 少なくともその個人の置かれた心身の環境(気温日照、仕事、地域、家族など)、人間関係、食事と数え上げたらキリがないくらいの「原因」がある筈なのだ。 そもそもクライアントの「訴え」や「症状」を「病名」「診断名」だけで片付け対処するのは、ヨロシクナイ傾向なのではないか。 しかしながら世界中の医学教育は殆んどこのトレンドになっていて或る意味オソロシイ。つまり病気探しと病名付けという流れ。またそれにしか基づかない治療。 病気があるとかないとかなど無関係に個人の人生としては楽しくて愉快で、元気に長生きをすれば良いワケだし、もっと本人の満足・不満足、快適・不快適にこだわるべきと思える。 上記のような自分の人生や仕事へのコンセプトであるので病名、診断名、病状などできる限り医学アカデミカルな要素を排してご本人の訴えとその解決に腐心している。 為に傍から見ると「いい加減」な医者と見えることがあるかも知れないが気にしないようにしている。 誠心誠意愛をもってできるだけクライアントの欲求・要求に沿ったカタチで治療をしている。 病名にこだわるなどということは殆どと言っていいほど無い。 「元気で楽しく長寿、健康、幸福」 これが最大の目標だ。 因みにそのわが社の理念とは、 「人々の健康増進を通してその幸福に貢献する」。 結構洗練されてると思うけどなぁ。 ありがとうございました M田朋玖 |