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■ 子供 | 2019.11.20 |
今は「子ども」と書くらしい。 供という文字が侮蔑的でケシカランというワケである。 確かにお供え物とか身分的に下位の者を指す文字ではある。 これらもまた一部の人の短絡的な考え方で「子供」という漢字も「言葉狩り」の標的にされたようである。 所謂「子供の人権」などという意味の複雑な問題が背景に見え隠れする。 そんなことはどうでも良くて 筆者には4人の実子がいる。 とりあえず自分の子供となっているが実のところ遺伝的に実子かどうか不明である。 何しろ自分で産んだワケではない。配偶者を疑っているということではなくて、知識として其れくらいの認識でいる方が涼やかでカッコイイと勝手に思っているからに過ぎない。 種については自分だろうとおぼろげながらの「推定」にとどまる。 世の中には存外そういう例が多い。 元々人間は乱婚で一妻多夫というのがその種の生命力増強に益するらしく、一夫一妻や一夫多妻は前者が公序良俗の安定に与し、後者が文明文化の発展に寄与するとのこと。 こと人類の生命力の増強という側面から見ると男子と男子、精子と精子とが戦っている状態が自然であるらしい。 このように考えると人間が、それも主に男共が喧嘩や戦争に明け暮れているのはその生命の仕組みから自然なコトなのかも知れない。 神の創造の妙も「生命の本質」が「競争」にあることを如実に示している。 しばらく前にゆとり教育という日本の公教育の流れがあって「競争」と「知識偏重」を「ヨロシキ」としない考え方が日本中を覆ったが、これは人間の本質、とりわけ子供の本来の性質を無視したもので結果は惨憺たるものであった。 それでゆとり世代の最も顕著な特徴は「知識不足」「悪平等感覚」と個人的には考えている。 何しろ彼らとは「言葉」が通じないことが多い。また使用している言葉の数が少ない。奇妙に「対等」。上下感がなく平行的なやりとり。 結果、会話に広がりや展開が起こりにくく謙虚さがないので「話が入らない」。 言外の意味、言葉そのものの意味が汲み取れないという不快な感触を味わう。 「読書家」にはこれが少なくて良い。 学校の勉強とは別に分野を問わず乱読で良いのでとりあえずその年齢に応じて多読することだ。 ひょっとしたら知識不足が解消されるかも知れない。 筆者は「詰め込み教育」大賛成。 パーソナルコンピューターのアプリケーションやデータ入力は多いほど良いというのが筆者の考え方である。 性能の向上というより多面的、多肢的という意味で。 話を戻す。 自分の子供の「しんがり」即ち末っ子は宮崎大学の工学部の大学院生。24歳。 高校卒業後6年間も自らの教育に費やしたことになる。 その息子のアパートに初めて行ってみた。 それは宮崎市郊外の「学園都市」という呼称の山の上の辺鄙な林の中にあって大学の校舎の道路を挟んだ向かい側にあった。 堅牢な建物の4階建ての2階。 入ってみると案の定というか「散らかっている」 本棚に本が詰め込まれ、溢れた本が床に山積みにされている。簡易ベッドとテーブルにタバコと古いノートパソコン。 学生らしく「財」らしき物品はモデルガン以外にはない。 父親と違って衣服に興味がないようだ。 自称「オタク」である。 アキバ系ではないオタク。 彼女もいず読書と映画以外に興味がない。 クルマにもバイクにもオシャレにも関心がない。 テーブルの上のピース缶と灰皿が気になる。 我が末息子はまごうことなき喫煙者。 ついでに酒も時々飲むそうだ。 嘆かわしいのか頼もしいのか。 昔は酒、タバコ、ギャンブルに親しまなければ男じゃないという時代があった。 中の息子は酒もタバコもやらず・・・彼女はいる・・・部屋はいつもキチンと清潔に片づいているのと比較すると兄弟と言ってもマチマチだ。 娘はその弟よりの中間で酒は飲むがタバコは吸わず付き合う相手にコト欠かずオシャレも好きである。 その上、長男は異母妹・異母弟たちの全ての気質を備えている。 我が子らの全ての共通点はマジメさと優しさだ。 親と違って反社会的傾向は全くない。何しろタバコを吸い始めるのに20歳の誕生日まで待ったと言うのだから。信じられん。クソマジメ。17で吸い始めた実父がまるで犯罪人の気色になる。 そういう意味では遺伝している気質と進化している気質とが併存しているようだ。 唯一の財産のモデルガンを接収した。対価を払って。これは父子共通の趣味らしい。 「子供のいる幸せ」は何かと自問した時に出てくる解答は「未来」という言葉だ。 それは「老後」とかではなく「死後」 自分がこの世から消えた先などどうでも良いと考える人もいるが自分の心の底を丹念にさらってみると、どうもそんな風な思いが浮かび上がらない。 未来は将来とは違う。 まだ見ない死後の世界・・・それは個人の問題ではなく・・・自分のいない世界とはいかなる様子なのかと考えた時に自分の両親のことに思い浮かぶ。 亡き両父母は今の自分の「在り方」を見て何と思うのだろうか。 「楽しい」 人類社会に貢献する立派な人間を望むというより上記の言葉を発するように生きていって欲しい。 そう思えるチカラとココロと社会と世界を願っていることに気づく。 子供への愛。 これは永遠不変だ。 ありがとうございました M田朋王久 |