コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 家族葬2019.11.16

最近こういう看板をよく見かける。
中にはご丁寧に金額まで書き入れてある。
葬式を安くあげようという市場(クライアント)と業者(葬儀屋さん)の魂胆がミエミエだ。
「家族でしんみり」という意味合いもあるけれど、どこかしら「淋しい、ワビシイ」言葉ではある。
人の死が個人的で公的ではない印象を強くする言葉。
「地味婚」とかとはワケが違う。

死は人間の一生の終末を飾る一大イベント。
たとえばその人間の生涯が多くの人に喜びと愛を与える素晴らしいモノであればキチンと世間や社会に向かって死を知らしめ「お別れ」をして貰うのがスジと思うが、そうであった人もそうでなかった人も「家族葬」という安易な言葉に誘導されてソコに逃げ込む(?)ことも多々あるかも知れない。

葬式は或る意味「メンドウクサイモノ」だ。
結婚式のように長時間かけて計画を練り準備するワケにもいかず、それは突然降ってわいたように「起こる」
勿論、長寿者や長患いの人については別であろうけれど比較的「急死」「頓死」に近い類であれば簡易で安価な「家族葬」を選択するのも一法かもしれない。
中には比較的裕福であったその「子息」「子女」であっても「家族葬」でお茶を濁すこともあるかも知れない。

元々葬式というものは現世的には本来残された者たちの為のモノだ。
当の故人の意図が遺言というカタチで残されていたとしても葬儀の段取りの最終決定者は親族、家族、所属していた組織、社会、国家とその長なのだ。
「国葬」とか「社葬」という言葉もあって「家族葬」という流れはそれらの対極にあって葬式をごく個人のプライベートのものという思想を感じる。
共同体意識の希薄化。
国葬云々はともかく「家族葬」とはいかにも家族にとって寂しい。
その人間の死を社会的な「事件」と捉えず、ごく個人の私的な日常の「出来事」に堕してしまっている感がある。
人間にとって「死」は物語の終焉と同時に完成・完了とも言える。
どんな人にも訪れる死の儀式。
どれだけ多くの人に愛されたか、尊ばれたかもその葬儀の規模と比例するかも知れない。
その人物の所属する一族、親族、組織、会社にとっての「存在感」も大事な視点であろう。
そういう生きて活動している人や組織の現在を未来の可能性をも社会に向かって表現しているのだ。
つまり現在と未来にそれらの人々との付き合いにおいておろそかに出来ないという理由によって参席する人が多いだろうことは想像に難くない。
そうこう考えていると「家族葬」というものが実にショボクでシミッタレているように思える。
昔の人のように「立派な葬式を出して」あげるのも故人に対しての大きな供養であろうし、関わった人々の豊かな未来をも近親者のみならず広く普く報しめることになるのだ。

また同じ血族の「集合」の良い「キッカケ」にもなる。
日頃の無沙汰を詫びることもひょっとすると不仲を解消する「話し合い」や「膝つめ談義」ができるかも知れない。
葬式はそのような種蒔きの儀式とも言えるのではないか。
根物の実が枯れて地面に落ち種になるのと同じように・・・。
「お葬式」という伊丹十三の初監督作品で大ヒットした映画(数々の映画賞を総ナメにした)がある。
作品はコメディーであるがお葬式というもののオカシサ、悲しさ、温かさ、コッケイさ、やりとりがよく描かれていて社会から思いもよらず良い評価を受けた。
同作品は何回見てもオモシロい。

自らの記憶を掘り起こしてみても結婚式より身内や親族のお葬式の方がはるかに印象深い。

慶事よりも弔事の方に不義理を戒める言葉も多い。
確かに若い時の参列すべき弔事への義理を果たせず今でも悔やんでいる類がいくつかある。
慶事にはそれが全くない。

こうして書いてくるとお葬式は結婚式より大事な儀式ということが分かる。
心して臨みたいところだ。
他家の家族葬に参列することはできないが、必然的に「家族葬」の態をなす裏寂しい「式」もある。
そういうレベルでない普通の人がわざわざ家族葬などを軽々しく執り行うべきではないと思える。
できる限りその国や地域の伝統にのっとり「正しく」「つつましやか」に「しめやか」に「おごそか」に行うべきが純正なお葬式であろうと考える。

またそういうお葬式をしてもらう故人も草葉の陰で喜んでくれるはずだ。
残された者のエゴよりも故人の視点、世間の視点を持つことであろうか。
家族葬の選択には慎重であるべきと思える。
もしかして選択肢があるのであれば。

ありがとうございました
M田朋王久



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