コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 貪欲2019. 9.21

或る時ふいに周囲の景色が変じてしまい見知らぬ街に空間移動して連れて来られた感覚が脳内に生じた。
それはカチッと音がするような割とキッパリとした変化で、動きまわるクルマや人々ですらどこかヨーロッパあたりの外国にいるような感触で、いつもの道、いつもの音楽、いつもの町・・・即ち見慣れた、言わば日常的な「生活空間」が非日常の「異空間」になった感覚である。
どちらかというと良い感触である。

それは熊本市・・・「どうかい祭り」の最中、みこしを担ぐ男女のかけ声のする喧騒の街路をクルマでゆっくりと通り抜けている時に生じた「心の現象」である。
それは素晴らしく心地よいモノで、車のオーディオから流れる10年以上聞きなれた音楽が素晴らしく美しい旋律を奏で窓外の景色を珠玉の映画作品のように日に映じさせあたかも特別な悦楽を脳内に生じさせる薬物を一気に静注されたような陶酔を感じさせてくれた。

この脳内現象のスイッチは意外なことに言葉であった。

「めぐり逢い」

カナダのピアニストで作曲家、アンドレ・ギャニオンの名曲である。
「そよ風の頃」というアルバムは彼の人のベストアルバムより優れた作品集で「溢れる愛のなかでも」「踊りつかれて」「星の眠り」「そよ風の頃」・・・それぞれの言葉と音楽を組み合わせて無心に聴き入って入ると心が静まって来て目に涙が滲んで来る。
愛の思い出と悲しみとが入り混じったフクザツな感情。

クルマの窓をフルオープン。
ついでにサンルーフも開け広げて「中秋の名月」を愛でながら都会の夜風に吹かれていると心にたまった屈託がホコリを払うように消し飛んでしまった。
「生きているだけで良い」
そんな無欲で淡然とした心持ちが自然に湧き上がって来て全身と心を軽くする。

「与える」こと、「愛する」こと、そして「捨てる」こと。
仏教的に「喜捨」。
それらの言葉と考えが心に浮かぶと自然に心が洗われたような気分になる。
この「満ち足りた何とは言えない愉快さ」が時々心に生まれるようになった。
食事を変えたお陰かも知れない。

人間はいつ死ぬのか分からない。
この一瞬一瞬を楽しむのに「貪欲」は邪魔だ。

世界中の富裕層を中心に広がっている貪欲という病は「格差社会」を生み出し「グローバリゼーション」「国際化」という怪し気な言葉・・・即ち国際企業を肥え太らせる為だけの政治経済、社会のルールを意図的に蔓延させたように見える。

そんなオソロシイ世界。
大衆はインターネットとそれらの類似する通信機器の端末を持たせられ「ヴァージョンアップ」と称する「特許切れ」対策の姑息な手段で永遠的に一般大衆からの自動搾取システムを上手に構築し、太古から存する「王」のようにそれらの組織の製作者は人々の上に君臨する。
そんな奴隷的な状況を唯々諾々と飲み込まされているのに、そのことに気づいている人は多くはない。
知的とされている人々ですらそれらの幻惑的な世界に埋没させられている。

そもそも金融システムにおける「利子」。発明や新しい技術、呼称に対して「特許」という制度はそれらを発案した人は一種の天才であろうけれど富の偏在を急加速させているように見える。

純粋で素朴な人間はそれらの仕組みを知っていてもそれに触れず「狡猾な者共」はこぞってこのシステム、仕組みを悪用し本来分かち合うべき地球上の富を搾取し専有している。
また富裕層は一般庶民レベルまで「貪欲」という病を伝染させて「競争」に「狂騒」させ、壮大なマネーゲームに明け暮れている。
勿論それらから精神的に「自由」でいられる人もまた多くはない。

或る種の人々の「精神世界」への傾倒はこれらの世情のコントロールからの「自由」と「解脱」にも思える。

脳内に起こっていること(精神世界)とリアル(現実世界)に起こっていることとの差異はいったい何だろうと考える。
実感?イヤ違う。
理屈的には感覚はいくらでも騙すことができる。
行動・・・これだけなのか。
察するところ意識を変えて(これも実のところ行動かも知れない)人生の喜び、この世界の快楽を抽出して味わうのに最も大切なモノは「脳」や「心」ということになる。
これらが健康で順良に機能していればそれそのもので「豊かで実り多き人生」ということになりはしないか。

Happiness consist incontentment

という言葉がある。
直訳すると「幸福は無欲で構成される」ということになる。
即ち満足。
「満ち足りている」ことが幸福であると・・・。
すべての事柄に愛と満足とがある時に人間は「幸福感」を味わうのだ。
決して欲望を満たすことが即幸福ではなく、その「得た物」「得ている状態」に心から満足し有難いと感じる・・・この二次的な心理ステップを踏まないと真の幸福者とは言えない。

欲望を否定しているワケではない。
欲望を満たした後に「満足と感謝を味わう」という心の状態こそ幸福と考えるのだ。
現代の世相を遠望すると「欲望の資本主義」即ち経済の「成長神話」があって、人々は「もっともっと」と急き立てられるように「より多くの利」「より多くの財」を求めそれを得た状態を幸福としているように見える。
それはそれで結構なことである。
人間のあくなき欲望が文明の発展に寄与しているという側面もある。
それでも繰り返しになるが満足を知らなければ幸福とは言えない。
ご存知のように人間の幸福度(感じ方)は年収800万円をピークに収入増加と共に少しずつ落下していくらしい。
それは、この「貪欲」という心の病。「もっともっと病」の二次的発症によると見ている。
いかがであろうか。

「老後2,000万円。」
名のある政治家の漏らした呟きもある種の洗脳ではないかと見ている。人々の不安を煽り日本で落下傾向の「貯蓄率」の回復を目指した。
蓄財などしなくても「老後」を生きて行けるように「制度設計」をするのが、政治家や官僚の仕事ではないのか。これは多分に社会主義的な論言ではあるけれど、人間の「貪欲」や「心配」を煽るのも貪欲者の頂点に君臨する悪しき者共に仕える「為政者」の仕事なのだ。多分。

ありがとうございました
M田朋王久



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