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■ 時間と空間 | 2019. 7.31 |
人生は時間である。 時間は生命そのものと言って良い。 一方、物やお金には生命はない。 「モノやお金は人生の時間と共にその価値が変動する」。 この辺りの「本質」を清明な意識で「整理」しておくことは毎日の生活を過ごすのに大変有益であろうと思える。 どうでも良い物品。 たとえば大量の衣類などを保存しておいて部屋中に詰め込んでおられる方がおられる。 それらは家の中の空間を占拠していて奪っている・・・という感覚はない。 それらが「所有」しているという満足感めいた気分にさせる。 それらの衣類が家の中にデッドスペース(死んだ空間)を生み出しているとは考えない。 昨年暮れに終了したスプリンクラー工事のお陰でキレイサッパリと片付いた我が部屋の空間は素晴らしい気分を自身の心にもたらしている。 この経験から部屋というものの本質は空間であるとあらためて気付かされた。 心とかアタマもそのような性質を持っていると仮定すると興味深い。 「空間を持ってしてその本質」という言葉は色々な物事に当てはめられる。 こと人生についても条件付きで言える。 条件とは愛のあるかないかという一点である。 濃密な愛に満たされた空間、それはその人物の心そのものであり、その人間の創造した空間に違いない。 愛をもって創出された空間はとても有益で愛おしい「間」になる。 「何も心配しなくて良い」「大丈夫です」など心という空間に在する重い物・・・それは心配事、悩み事、懸念のような類を取り除いて軽くする。 結果的に心地よい空間を創る。何の根拠がなくても、それらは愛のある行為と言える。逆に「脅す」というのは悪行に見える。 時間については様相が少し異なる。 時間の長さ・・・それも空の時間は休み・休養としては素晴らしい「間」ではあるけれど、こと仕事や遊びについては「無為」というのは心淋しく愛があるとは言えない。 たとえば暇な店、ヒマな商売、物やサービスが売れないという状態、即ち時間が余っている、空き過ぎている状態はマズイだろうと思える。 忙しい、急ぐ、「せく」など時間が押し込められて多忙という状態は見方を変えると「愛のある時間」とは言えないだろうか。 こと仕事やスポーツや遊びについては時間は詰まっている方がオモシロイ。 スピード感があると言っても良い。 ガラガラの空間とかチンタラと過ぎる時間とかはツマラナイ。 空間については空けることが愛。 時間については詰めることが愛。 と考える。 かなり一面的に、強引に。 たとえば昔あった「詰め込み」教育というもの。 こと時間については素晴らしく良きことなのではないか。 中学・高校の学校生活、寮生活はまさにギューギュー詰めの時間で毎日時間に追われていた。 すべて勉強と部活の為に。 平日9時間の授業。 部活1時間、5分で入浴、5分で夕食、夜の12時の消灯まで勉強勉強。 これを約5年間つづけた。 殆んど強制的に。 これに素直に乗っていたので成績も良いし、部活のバスケも良調。 よく鍛われたものだと思う。 この時の「詰め込み」時間が今の自分の人生を支えて来たと言っても過言ではない。 ギューギュー詰めの時間、濃密な時間。 これは子供(少年時代)にとって大変重要であろうと思える。 人生の時間と空間を求道者的に極めていけば「物」ほど無駄な類はないと思える。 自分の人生を充実させる、楽しむ為の物品だけをよく厳選して周囲に最小限置いておけばより「ゆとり」を持った人生そのものの楽しみを得られるかも知れない。 余計な物品、無駄な衣類など捨ててしまい一年間に何回も着るお気に入りの衣類、何回も使うお気に入りの道具などに集中物化して所有すれば真の意味の「断捨離」で「シンプルライフ」になると思える。 しかしこれらもやり過ぎないほうがよい。 或る程度の無理無駄、余計な活動にもそれなりの意味があって素晴らしい出逢いやアイデアがそれらのムリ・ムダな活動によって生じることがありる。たとえば躁状態の人がその時期良縁や幸運を掴み易かったりする。 躁状態・・・軽躁であれば上機嫌な「人との交流」となり、結果としての「良縁」「幸運」。 ムリ・ムダのない合理的な人間がツマラナイ、いかにも殺風景な人生を歩んでいる人を時々見かける。 あまりにもクールで合理的な人物が気の毒なくらい淋しい人生を歩んでいおられるのを見ると、少しく同情してしまう。これらの人々は普通自覚が全くない。 「徳は孤なし」 論語の言葉で有徳の人は決して孤独になったり孤立したりしないという意味である。 徳というモノにはそういう不合理さが含まれる。 損に似ている。徳と損。微妙な因果がありそうだ。 人生にムリ・ムダ・ムラはつきもの。 それらは料理を美味しくする調味料のようなもの。全て排除するワケにもいかない。 愛のある空間・時間、充実した愛の時間、それらを意識すると人生の過ごし方が平易で理解しやすいものになると思える。 物やお金はあくまで手段であり道具に過ぎない。 物やお金を無意識に目的にしてしまうのも人間の愚かな性だ。 そのことをわきまえて愛のある空間、愛と学びで充実された時間、これらの意識は物やお金でその時間を埋め尽くすというような愚人の仕業など自然に避けるようになると思える。 時間を愛する、空間を愛する、そういう意図を持つ。 このことが豊かな人生を築くための良いアイデアと考える。 人間たちは時間と空間を無意識にか意識的にか支配しようとして、結果的に叶わずにいる。 どんなに豊かな富も権力もそれらの前では、結果的に真の意味で無力だ。 人間の所有が可能な「モノ」はこの世界でただひとつ「今ここ」の瞬間だけ。逆説的に時刻と空間を超越した時。そのことにハッキリと気付くのは、「いまはのとき」。「悟りの瞬間」。 ありがとうございました 浜田朋王久 |