コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 郷愁2019. 7.10

えも言われぬ理由の無い心地良さを心の中に感じる時、必ずと言って良いほど含まれる心象が郷愁、懐旧、ノスタルジーという類のものである。
小学生の頃、これを求めて弟と二人で山野を歩きまわった経験があってその時の記憶を今でもありありと想起することができる。

減量に成功しアルコールを断ち、食生活を変えたところ、この感覚の出現が頻回になって毎日の生活がいつも心愉しい。
かえすがえすも飲食生活の人生に与える影響の甚大さに驚かされる。

幸運・良運・悪運・凶運と人は自然にしていて振り分けられるが、最もこれに影響を与えるのが「飲食」であると江戸時代の名観相家「水野南北」は強弁しているが、全く「そのとおり」だとつくづく感じる今日この頃だ。
人間は気分が良いと言動・行動が明朗で快活になり結果的に幸運を呼び寄せる。
日常のささやかな変化・・・それは表情だったり、ささやかな所作だったり、言葉だったりするが、それらが明るくほがらかでおだやかな類であるならばそれらを表現している人物の良縁獲得、幸運招来は理の当然と思える。

社会に向かって善なる事柄を押し出していれば社会から返って来る事柄も「よろしきモノ」になるという考え方は大昔からある。

気分の良い時に心に浮かぶ少年時代の郷愁は、いくらか惨めで悲しく心寂しきモノであっても良い気分と清明なアタマで振り返ると「感謝」になる。
深い愛情で育てられた感覚は生きて成人できた人間ならば実のところどんな人も理性的に感得できるモノであろうけれど、時々親や親族や教師や友人達(苛めなどの理由によって)に恨みつらみや強い復讐心を抱いている人々には深い同情を禁じ得ない。一方で筆者のようによく愛育され厳しく躾けられた少年時代を思う時、思わず落涙するほど深い謝念で心がいっぱいになる。

人は愛された経験が無いと愛することができないらしい。
「子供にどう接して良いか分からない」というお尋ねを頂くことがあるが、正直言葉を失って沈黙してしまう。
「親に遊んでもらったこと、愛された実感がなかったこと」が原因というと直言できるほど粗雑でも鈍感な神経の持ち主でもない。

自分の子供が生まれた時に、初めて接した感想はそれほど感動的なものではなかったけれど成長と共にどんどん可愛くなり、自然に子供に頬ずりをしたり、キスしたりしたくなるモノのようで、赤ちゃんの柔らかい顔や全身を舐めまわすように愛撫して抱擁してその「愛の喜び」を子供から得て来た。これはあらゆる生物に子供は可愛く創造してあるようで、生まれたての蛇ですらチョロチョロ動きまわって小さくて可愛く見えるから、全くもって神の創造の妙というものに深い感嘆の吐息を禁じ得ない。

そのような乳児〜幼少期の記憶は普通の正常人には殆んど再生しない。
貴重な愛の思い出も、親心に基づいた躾けや体罰によっていくらか混乱させられて、純愛として意識されたりせず、ただ「親の身勝手な愛」と片付けられ、そのことに強い恩義を感じる人間は極めて僅少であるように見える。
或る意味、不思議なことだ。
多くの「甘やかされた子供」に至っては「逆恨み」して父親や母親を「憎んでいる」例もあったりして、人間という存在の悩ましさをしみじみと感じさせられる。
しかし「親の恩」を忘れる人間で大成する人はいない。
感情的に、生理的に親を嫌悪するのはよく理解できる。
そのような「親子の生理」を造物主が采配しているのだ。
自然界の摂理に沿うように。親子が自然に分離するように。

人間なのであるから理性的に単純な理屈として「親の恩を感じる、報いる」ということが意識として、道徳として大切なことなのではないだろうか。
年齢が行って青年や中年、老年になっても変わらず親に対して侮蔑的な考え方や対応をする人間には身分の高低、貧富の如何に関わらず「大した人間がいない」というのが個人的な感想である。

話しを戻すと自然に心の底に湧いてくる「快」として何故ノスタルジーがあるのかと自問した時にこの記憶にない筈の親の「無償の愛」の潜在的な記憶の刻印を、無意識に思い出しているのではないかと推察するのである。

全きリラックスとか理由のない快感、たとえば入浴した瞬間、長距離のランニングを走り終えた時とかに自然に感得されるそれらの「快」の感覚は心理分析的には「幼少時期に親の愛を受け取れている時の心地良い記憶」を再生して鮮明な記憶とか映像とかではなく潜在意識からの「愛の奔流」として化学反応のように成人の脳に味あわせているのではないかと考えている。

また小説や文学の多くがこれらの「根」に基づいている気がする。
つまり「文章を読む」「小説を読む」という行為に「快」があるのはそれらの記憶の断片を手探りで脳裏をまさぐっている「心の作業」なのではないかと思うのだ。

記憶はそれが強く深く刻印された類ほど顕在的に意識に昇って来ずに無意識の底で大人しく収まっているが人を発狂させるほどその精神を理由のない動揺・・・たとえば抑うつとか怒りとか恐れ・・・に誘導するのかも知れない。

ノスタルジー・・・それはまず殆んど母性へのソレであろう。
全ての人間は母親の胎内で一定期間育まれ、出生後数年間母子一体となって母親の愛の中で育つ。
それが快であったか不快であったかは人生全体に甚大な影響を及ぼす。
少年時代、思春期、青年時代と人生の初期の段階がいかなる感触であったかは誰もが極めて重大であると認識している筈だ。
特に9歳〜10歳、小学校3年〜6年の間の経験は成人してからの人生に強大な影響力を及ぼす。
幸いにしてその頃に辛苦と共に深い愛を感じさせる人物・・・(親とは限らない)の登場は劇的にその人生を変容させ、成功者や偉人への道を拓かせることがあるようだ。

郷愁もその甘い響きとは裏腹にかなり重いテーマを含んでいることにあらためて気づかされる。人間の本能として親の体内に戻りたい、という欲求があるような気がする。あまりそんな風には考えたくはないけれど。

ありがとございました
M田朋玖



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