コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ つづける2019. 7. 8

「一生一業」という愚コラムで「つづける」ことの「得」と「徳」を説いたが、あらためて趣味や遊びにしろ仕事にしろ「つづける」ことの喜びについて書いてみたい。

筆者は現在65歳で、今冬には66歳になるがいまだにバスケットボールをしている。
昨晩(7/1)にも孫・息子の年代の若者たちとバスケの練習に興じたが、とにかく楽しくてしようがない。
うまく説明できないほどで一種の感動的な「喜び」があって、これは仲間たちにも上手く伝えられない感覚である。
言葉や理屈ではなく感覚なので或る意味当然と言える。
基本的にセックスとか美味しい食事とかと同じ類の快楽なのであろう。

昨日の練習ではチョットだけ「心構え」と「イメージ」と「体の動かし方」を意識して「変えてみた」
するとすぐに快楽の感覚が身内から噴出するように全身に染みわたり、やたらめったら「楽しくなって」我ながらこの劇的な変化に嬉しい驚きを感得してしまった。
ひとつのことを「つづけている」と何かしら悟りめいた発見とそれに応じての深い「喜び」があって、これらの気分は誰でも味わえると思えるけれど、途中でやめてしまったら「味わえない」だろうと想像している。

転職を繰り返すとかパートナーを次々変えるとかとにかくあちこちに自分の意識がバラバラに分散していたら本来味わえる筈の「喜び」も「苦しみ」も体験としては深みに欠ける浅薄な類に堕してしまうのではないかと考えている。
何しろ50年以上続けているバスケですらそれを感覚するくらいであるから。

そもそもギャンブルのように一発勝負、一攫千金という考え方も瞬間的には「あり」かも知れないが「人生の味わい」というものには全くそぐわない「行動」「センス」であると思える。
長い付き合いの友人、長い付き合いの仕事仲間、長い付き合いのパートナー、子育て、孫育てなど人間の幸せごと、喜びごとの全てはつづけることで得られているということが分かる。
叙勲などという名誉もそれが偉大な業績かどうかは関係なくつづけて来ている社会的貢献(単なる議員さん、首長さんでも)をした人に与えられるらしいので、賭け事まがいの「一発勝負」的行為、行動、成果には殆んど与えられない。

幸福の「福」という文字も善きこと、素晴らしきことを積み重ねて得られる類のしあわせで「幸」のラッキーとは違うものである。
知人の中には「ラッキー」という言葉をしょっちゅう使っていた男がいたが、この人物は何かしら天から降って来るように幸運を期待する風があって何となくパッとしない人生を送っている。
努力して積み重ね(積重の法則と呼ぶらしい)る福の獲得法については不知であったようだ。

何事にも正当な方向性を持った「長い努力」なしに得られる「福」はその文字面からも理屈として得られないものなのだ。

「つづける」という言葉を漢字にするともっと分かりやすい。
「糸」へんに「売」る。
「長く売りつづける」つまり長いビジネス、長い商売のことを「そのまんま」表現していると言って良い。
いずれにしても「つづけていると何とかなる」というのが筆者の人生観で、或る意味「生き残る」「サバイバル」の手段とも考えている。
勿論時代に応じてイノベーションはしなければならないが・・・。

「つづけるしか能がない」とも言えるくらい他の方面では才能が無いので結果的にこういう生き方しかできなくなったのかも知れない。
世の中には何が本業か分からない多芸多才の人がいて色々な才能を多方面で発揮している人がおられるけれど、その人生を終えた時に一言で表現されない人物というのはどこかしら徳のない薄っぺらい人間に見えてしまう。

「○○一筋」というのが立派な人間の人生のような気がする。
その筋の道で「極めて」「達人」のレベルになるのはそれぞれの個性の発揮という意味で一個の人間として素晴らしい「社会貢献」になるのではないだろうか。

つづける「コツ」を付け加えると個人的には常に「学び成長する」という意識を持つこと。
それに携わることで自分なりの「快」を得る工夫をすることではないだろうか。
この2つの工夫・努力でどんな仕事も遊びも人生の生活も楽しいモノに出来る筈だ。
ついでに「目標となる人物」を心の中に持っておくと良いそうだ。
中国古典にも「腹中人あり」と言ってこのことを勧めている。
「誰も尊敬する人はいない」とエラソーに嘯いている人間を時々見かけるが、自分は「大した人間ではない」と公言しているようなものだ。
悪い意味で「自己完結」していて、成長しないしする必要もないと言い切っている言動だからである。

どんな人も人類すべて「一輪の花を咲かせる」のが美しく立派な人生であろうと思える。
それが豪華絢爛とした花をという必要は無い。
「一人の人生」という意味で貧者も富者も貴人もそうでない人も全く同質で「人類皆兄弟」と同視しているというのが個人的には精神的な「立つ位置」としている。
「ひとつのことをやりつづけた」という人生というのは「死して生きる」と言えるほど偉大な人生を歩んだとも言えるかも知れない。
多くの「偉人」と呼ばれる人々の例を挙げるまでもなく人生を思う時、そのように断言できる。

ビル・ゲイツというマイクロソフトの創業経営者は世界一の資産家だそうである。
立派な人間だと想像するが、その所持している富によって人々の尊敬心を減じているように見える。
これは多分に日本人的で、世界中の尊敬を集めて近年亡くなったマザー・テレサとかウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏などその清貧によって富者よりも人々の尊敬を集めているようだ。
人間心理の不思議だ。
考えてみればこれは理屈にかなっていて、地球上の殆んどの人は貧者が圧倒的多数で共感を得やすく、富者はこれまた圧倒的に少数で現在その格差はますます大きくなるばかりである。
この世界的トレンドは今のところ誰も止めることができないでいる。
言わば異常事態と言えるこの格差問題も、たとえば大胆な「累進課税」して出来るだけ富の偏在を抑制すべきと思うが多くの富者たちは、まるで子供のようにこれに反対し益々富裕層優遇の税制を欲張って求めている。
ビジネスとは商売に携わる企業や個人のひとつの本能なので仕方のない部分も認めるが人間の欲望には限度が無いようで、これくらいとかほどほどとかではどうも蓄財について満足しないように見える。
余程それが楽しいのであろう。

市井の一市民としてそんなことには殆んど興味ないが、人類の尋常ならざる事態と個人の正常状態の対比が興味深い。

人間は集団になると知能が下がるようで、個人に帰ると人間の一生などその長さと暮らし方なんて知れたもので、チョットくらい贅沢をしたからと言ってさほど愉快そうには見えない。

個人的には、ひたすらに、ただ一心に、今行っている仕事に専念し「つづける」ことしか能はないと肚を括っている。


ありがとうございました
M田朋玖



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