コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 「女」2019. 4.28

この言葉の意味するモノは純粋に性的な類である。
しかしながら人間以外の生物には一切使用されない。
女性という言葉とも大きく違う。
それは人間の男女共が性の対象物として、或いはその性徴を社会的に、心理的に認知して使用する言葉になっている。
即ち「女」とはとても猥褻な言葉で、これは「男」とは違い性的な色合いの濃度が深い。

「いつまでも女でいたい」「やっぱりアイツも女だったんだ」という風に使われる。
今は男女同権が叫ばれて、政治の世界でもいくらか遅ればせながら日本国でも女性の侵出が散見される。
熊本県も前知事は美しい容姿を持つ女性であったし、現東京都知事もかつて美しかった女性である。
今や世界的にはイギリス、ドイツなどヨーロッパの国家元首ではないがそれぞれの首相はメイ様、メルケル様となっていて、後者の後継者も女性党首になるらしい。
女性の政界進出の応援者としては誠に慶賀に耐えない。
それで彼女らが紛うことなき女性ではあるけれど「女」であるかどうかは不明である。
これは端的に「性的な活動」について問うているワケで、チョット拝見したところそんな風な「オーラ」は微塵も感じられない。
実際はどうか分からないが・・・。
男性の場合いくつになってもまだ「男」であるかどうかはあまり周囲から懸念されない。
当然「男」だろうと通常考えられている。
女性の場合「女」であるかどうか周囲、それも主に男性達から常に鑑定され目利きされてしまい或る意味気の毒である。
内心は「放っておいてくれ」という感覚だろうか。

いずれにしても世の中に「女」がいるというのはとても鮮やかな彩りを添えてくれて春にはとても嬉しい。
それは子供でもなくオバさんでもなく「女」というのは巷間あまり見かけないものである。(実のところ「女」である為に年齢は関係ない。成人さえしていれば)
近頃は残念なことに「女」をやめている女性が多いのにはひどく落胆させられる。
先日の日曜日は恒例のバイクツーリング。
宮崎県日南の飫肥城が目的地であった。
到着したのは丁度昼過ぎ。
明るい春の陽光の下、昼食休憩か貸し切りバスが数台止まっていて観光客がその城下を散策しているのを大勢見かけた。
その中にまごうことなき「女」はたった二人しか発見できなかった。
一人は男女のカップルで白いブラウスにサラサラした生地のロングスカートで、いかにも「女」であられた。
もう一人は職業柄それを売りにしているバスガイドさんが「女」のイデタチで、バスの傍にしおらしくたたずんでおられた。
この二人の女性が目の保養をキチンとしていただいて個人的には明確に「充電」された。

人間の諸活動において「男」だったり「女」だったりはあまりないもので、一般にそれを携えていても中性的に活動しており、最近はこの傾向が殊更に強くなっているように思われる。
その差異、落差も無いことをもって男女同権というらしい。

ところでごく個人的には良くも悪くも「女」には目がない。
というのもそれぞれの女性についつい「女」を発見してしまうからだ。
また無意識に発見しようと努めている自覚がある。
まず制服。
男性に人気があるのが(昔の)ナース服、CA(スチュワーデス)、事務服と定番的だが、これらのコスチュームは女性らしいラインを強く誇張するようにデザインされており、特に事務服についてはウエスト部分を上に着るベストのストラップが締め上げるようになっていてそこはかと劣情をそそらせてくれる。

昔、女性のミニスカート談義を雑誌で読んだことがあるが「足を見せている」ファッションであるのに男にジロジロ見られるのはイヤだそうである。
「見せびらかしておいて見るな」と言うのは一種の意地悪であると。
そういうところがいかにも女性らしいとは思える。

個人的には頭の中は「女」を中心に運営され展開しているという実感がある。
「女」とは或る特定の女性の存在を指すワケではなく「女」という抽象概念のことである。
そういう「女」が頭の中にドッカリと鎮座していて筆者を操っているという感覚だ。
「女」のもたらす官能の世界は女性そのものの存在を越えて、大袈裟に言うと宇宙のように広大無辺である。
あくまでも個人の感覚であるけれど「女」と「宇宙」は殆んど同等の価値を有する。
言い換えると筆者の個人の存在の生殺を与奪していると言っても良い。
それが無いと生死に関わるという意味だ。

それじゃ「アンタはなんでバイクやらの危険な乗り物に乗ったりバスケットボールのようなどちらかというと激しいスポーツに興じたりするのか」と問われれば即答できる。
それらの活動は「女」の時間の隙間に対する「時間潰し」に過ぎないと。
これはあくまでも実際の性行動のハナシではなくて脳の中、アタマの中の作業の問題でこれを追求し研究することが精神的作業として無限界に面白くて愉快なのである。

実際に存する女性はというと、そういうアタマの中の「女」と比較すると思いのほか失望させられることが多いのであるが、逆に想像を絶するような実物の女性にも映画やビデオや現実の女性の中に極めて稀に遭遇することがあるが、これも何かしら奇跡的とも呼ぶべき「出来事」であるのでこの感動を言葉に表現するのが難しい。

巷を見まわしてそれは極めて「少ない」ということはお伝えしておきたい。
実際は自らの年齢の上昇によって増えている筈の「女」の数が少年時代から青年時代には、無限と思えたのに、今ではメッキリ減ってしまったというのはどうしたことかと言うと、多くの女性のファッションの男性化、或いは女性そのものの男性化によると思われる。

極端に短い髪(ショートヘアが嫌というワケではない)、スカートを穿かない、女性らしい「色」「デザイン」の少ない衣類、また「ユニセックス」という言葉が人間のあらゆる世界に流通していて益々ツマラナイなど、数え上げたらキリがない。
ところでもっともそそられる女性のファッションは軍服である。
軍服の女性は言葉に出来ないほどセクシー。
それは男性と同じデザインと衣類を着ているので女性の「性徴」・・・たとえば胸やお尻や腰つきやウナジなどが逆に強調されるからに違いない。

戦争映画などに出てくる女性の軍人、軍服姿の女性には必ず、少なからずの「発情」をさせられる。
これと同様に婦人警官も。
興味深い自己分析の結果だ。

しかし今後、未来の「女」はいったいどうなっていくのだろう。
「女」は人類の未来を決定する極めて重いテーマと考えている。
なにしろ今のところ人間は女からしか生まれない。
正常な性行動が大前提としてあるからだ。また今後の科学文明の進展の仕方では、その「大前提」すら崩れ去るかも知れない。「女」が死語になる可能性だってあり得るのだ。何ともはや。
注)多分にセクハラ的論言、乞うご容赦。

ありがとうございました
M田朋玖



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