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■ 鏡 | 2019. 3.26 |
ここ20年ほど鏡を見なかった。 姿見の替わりにするのは夜のガラス窓とかコンビニにある防犯用のカーブミラーくらい。 それは自分の全体のシルエット、自分のファッションのバランスを見る程度だ。 とりあえずシッカリとは見ないようにしている。 特にトイレ、洗面所ではことさらに鏡を見ない。 それで「身だしなみ」を整えるにはどうするかというと、例えば髭をハサミで刈る時に円形拡大ミラーで口の周辺だけ、髪だけはそのシルエットだけを手ぐしで軽く触れるくらい・・・それで良しとしている。 朝から鏡を見ていたら仕事のテンションが一気に下がって辛くなる。 自分の写真とか見るのもとても嫌だったが、それでも最近白髪になってから少しだけ鏡を見たり自分の写真を見たりできるようになった。 それは老いのあきらめとか意外に白髪顔のシルエットが自分としては「見栄え」がマシになった気がするからだと思える。 自己満足でも自分の顔は基本的に人が見るモノなので自分のモノであって自分のモノではない。 鏡に映った自分の顔は写真とだいぶ趣きが違う。 これは当然で、パソコンで画像を反転させると「別人」になる理屈だ。 であるので鏡に映った自分は本当の自分とは思わない方が良いと思える。 あくまで参考程度。 本当の自分を知りたければ人に聞くのが良い。 それも或る程度審美眼のある人に・・・。 神社の奥に納めてある御神体は「鏡」ということになっている。 それは普通円形でレンズ状に中心が膨隆しているワケではなく平面だ。 これは或る人によると「神は自分」ということを示しているらしい。 神様を見ようと御神体を覗き込むと自分の顔が映っているというワケである。 となると「鏡を見る」という行為は神様を見るということになる。 筆者のように鏡を見ないということは自分自身を見ないと同時にそこに映り込んでいる「神」をも見逃していることになる。 そういう意味では極めて残念な習慣なのかも知れない。 仮神=かがみ=鑑=鏡なのか。 鏡開き何て言葉もある。意外に深い。 或るセミナーで「鏡の自分を見つめる」という「セッション」があって、この時は仕方なく見つめたのであるが特に取り立てて深い感興を惹き起こすことはなかったと記憶している。 ユニクロをはじめH&М、ZARA、GUなど大手アパレルの店内には意外にも鏡をあまり置いていない。 ソレを見に移動したり見つけたりしなければならない。 これはビジネスの手法として間違っていない。 また自分の映った鏡を見て喜ぶ人はあまり居ないということを示している。 鏡を正面に置いたり壁を鏡張りにしたり正面に置いたりするとお客が逃げる。 「反射」と言って鏡は人に「帰れ」というメッセージになるということだ。 一般家庭でも鏡を玄関に置くのは外出前の身だしなみのcheckには良いが、お客さんを呼ぶには不向きだ。 「お客さん」が嫌いな一般人なら好都合であるが、商売には「鏡」は基本御法度と知っておくと良い。 普通の商店に大きい鏡を置いてはイケナイ。 特にバーやクラブ、スナックでは自分の飲んでいる姿、酔っている顔など見せられたらいっぺんに興覚めして心地良い酔いも冷めてしまうかも知れない。 自分の抱えている「自己イメージ」をこなごなに粉砕してしまうからだ。 余程のイケメン・美女でない限り(そんな人は滅多にない)自己イメージ(虚像)と実像の落差に驚愕し、落胆し自己嫌悪に陥るのがオチだ。 そんな諸々の理由から「鏡を見る」という行為をやめているのだ。 昔のラブホテルには鏡張りの部屋があった(今は条例で禁じられている。不思議。)がこれは若い男女で幾分ナルシスティックな傾向のみずみずしく美しい肉体を持ったカップルなら楽しいかも知れないが、この年になると自分の痩せ細って老いた肉体と白い胸毛や陰毛などを見てしまうと一気に性的興奮も冷めてしまうに違いないと想像している。 スパイ映画などでは街路に建つ店舗のショーウインドウの総ガラス張りの窓を鏡にして尾行者の動きや特定に利用しているシーンがある。 ガラスを鏡とカウントすると都会は鏡だらけで自然にしていて自分の遠めの姿が映り込んでしまうが筆者はこれも意識してみないようにしている。 鏡を題材にした物語は古典を中心に多い。 有名なナルシストと語源となったナルキッソス(男)は水面に映った自分の容姿を見てその美しさに自分を愛してしまう。 白雪姫では「鏡よ鏡、この世で最も美しいのは誰?」との問いかけに物語の起点がある。 有名なフレーズだ。 不思議の国のアリスは「鏡」の中に入ってしまう。 日本文学では鏡のついた歴史の古典が「鏡物(大鏡・水鏡・今鏡など)」がある。 鏡は世の中、世相を映すシンボルでもあるらしい。 人間は鏡と共に生きていると言って良い。 鏡を身近に置いてあるのにそれを敢えて見ないという自身の真意はと自問すると、とりあえず「自己イメージ」を守る為と言っておきたい。 この考え方は他者の評価や鑑定を無視したモノで、或る意味奇態とも思えるが多くの個人は「自己イメージ(虚像)」を持っていて、それは若い頃の美しい自分であったり理想化した自分であったりする。 或いは映画スターであったりタレントであったりと、その混ぜこぜになった自己の「偽」のイメージに心理的に依存して生きているとも言える。 そういう心理的な傾向を全く持たない人もいるかも知れないが、そんな人々に限って着ている物に全くこだわらなかったりだらしない汚い格好をして平気だったりという人々が多い気がする。 それらの人々は小さな手鏡などを見て表情をつくったりしているからオモシロイ。 近接して見る自分の顔だけで良いとか悪いとか美しいとか醜いとか分かるまいにと思うのだけれど・・・。 全体のシルエットとかバランスとかを考えて「人間の美」を捉えているので部分へのこだわりは少ない。 そういう自分自身の傾向を受け入れているので虚像(鏡)と実像(他者のありありと見ている自分)との間に差があって、それについてはあまり拘泥しないようにしている。 自分の考え、想像する自分を大事にしていると言って良いかも知れない。 したがってしみじみと「鏡」を見ることなど未だに、しないでいる。 ありがとうございました M田朋玖 |