コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 映像の世紀2019. 1.14

1895年にフランスのリュミエール兄弟が映画を発明し、以来20世紀(1900年)
以降の100年あまりを映像の世紀とNHKは呼称しているようだ。
リュミエールはフランス語では「光」という意味らしくとても憶えやすい。
1900年代初期には既にカラー映像も撮られたらしく、この映像技術はこの100年間でみるみる進化発展し、現在の映像氾濫というか映像洪水という状態に至って映像そのものの美的価値・芸術性は逆に下がってしまい、どちらかというと美しくないどうでも良い映像が多くなっている・・・というのが個人的感想である。

現代では画像の美醜よりその報道的な価値、即ち社会に対するインパクト・衝撃度によって世界中に流布拡散される傾向にあるようだ。

NHK-BSの「新・映像の世紀」を加古隆の音楽と共に観せられると或る種の恐怖体験をさせられる。それなのに、NHKに言わせると「映像は人類の記憶」とのことだ。
まるで財産か何かのような表現である。
それはそうかも知れないが、これらの衝撃的な映像を見せられる「人類」というものが果たして幸福なのであろうかと思わず自問してしまう。

人類は文字を得て文明を拓き、ついに映像まで手に入れた。
映像と音と文字で人類の進化の速度が速められたのかも知れない。
けれども一方で悲惨さ、無残さ、残酷さなどネガティブな心象を無理矢理心に生じさせられているのではないかとも案じている。
素人が無造作に撮った少しも美しくない映像を見て気分が良くなるとも思えない。
また愉快とも面白いとも思わない。
それは春のうららかな陽光の降り注ぐ窓辺で心静かに読書を楽しむということと対極にある騒々しく少しも落ち着きのない次々と脳の視覚と聴覚を通して本来は冷静で沈着であるべき思考を洗脳的に粉砕するとても不愉快で劣悪な情報技術ではないかとも思えるのだ。
それは人間から想像力や絵画技術を奪い、心の中の気持ちの良くなるファンタジーをも搾取している気がする。

それらは日常的に見せられて生じるおぞましく不快な感情は衝動的な、発作的な暴力・暴動へと誘導しているのではないか。

放送者は映像のプラスの側面・・・たとえば民衆の知る権利の拡大、それによる民主化・自由化と同時に、贅沢な暮らしへの渇望・羨望や或いは悲惨な貧困や紛争への恐怖を生み出し、人類の「心の平和」を奪っている・・・というようなマイナスな側面を視聴者に擦り込んでいると思える。

各個人の「心の平和」の為には読書、空想、自然とのふれあい、心の通う静かでひそやかな会話、瞑想など非映像的(少なくとも人工的でない)行為、事柄が必要なのではないかと考えるのだ。

人間は言葉や文字を発明し、長い間これらを学問・学習の中心的な道具としていたという歴史がある。
20世紀に入りラジオ・映画・テレビ、インターネット、携帯電話と進化し映像を中心に世界が、宇宙がかえってツマラナクなった。

繰り返しになるが映像は人間の大切な心の働き、脳の機能、想像力・創造力を退化させているように思える。
外国や外国人、辺境、異境の地がすみずみまで優れた映像技術で見るも無残にも赤裸々に、剥き出しにされ、人間から「夢とロマン」を奪い去ってしまった。
そんな風に感じるのだ。
ついで人間の美意識も・・・。

絵画と彫刻と建築物と文字、詩歌など人類の創造して来たさまざまの芸術や「美」が醜い映像に凌駕されていく。

世の中には美しい出来事より変奇で醜いことの方が多いと勘違いをさせるチカラも記録的で衝撃的な「映像」に宿っている気がする。
それらはよろしからざる者たちによって上手に民衆を操作する為に使用されているのではないかとも危惧する。

またメディアの力がそれらのネット上の映像をただちに削ぎ落してしまったとも思えない。
多くの日本人は未だにNHKやその他の民放のテレビ報道や新聞が真実の情報という前提で会話している。

それらの映像といかに「付き合う」べきかの判断は慎重でありたいと考えている。

個人的な印象では近頃のあらゆる映像に芸術性と美的感性を感じない。
モチロンそれを単なる映像に求めるべきではないが、それらの「美」が映像に残っているのは当然ながら殆んど大自然のモノで冴え冴えとした冬の月であったり、荘厳な毎日の日の出であったり、眼前に広がる大海原であったり山々であったりと太古から人間の崇めて来た類でこれらに強い普遍性をしっかりと感じさせられる。
ありがたいことだ。

「美しい人」
それは内面も外面も行動も言葉もファッションも生き方も全ての面で「美」を具有した人もまたあまり見かけない。

「映像の世紀」
約100年あまりの映像の蓄積。
何かしらの悪事の証拠にはなるかも知れないが写真にしろ、動画にしろ、ナレーションにしろ、巧みな組み合わせは「見せ方」によっていかようにもその中にメッセージ性を込めることができそうで不気味である。

昨年見た映画「女神の見えざる手」はまさしくそういう作品で、録音と映像で米国議会の公聴会だか審問会で相手を撃破する物語でスカッとした。
ソラオソロシクも世界中の都市部や住宅地などいたるところに設置された監視カメラ、ドライブレコーダー、スマートフォンなど映像機器に囲まれて犯罪抑止には役立っていると聞く。
違った意味で映像の世紀。
ライフスタイルの変容も検討する必要があるのだろうか。

ありがとうございました
M田朋玖



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