コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ ゆとり教育2018.12.14

平成14年に始まったとされる日本の初等・中等教育の教育削減3割と総合学習を取り入れた文部科学省が旗を振って教育制度改革の総称である。
個人的な記憶では昭和60年代に教育内容削減の方針はメディアで取り沙汰されていたので、30年以上日本の教育の後退がつづいて来たと思っていた。
この制度は当然ながら各界からの多くの批判を浴びて16年後の平成30年にあえなく終了となった。
即ち削減された3割が段階的に復元されていく予定である。

この教育によって生まれたゆとり世代を持ってして社会適応がやや不調で、特有の風変わりな性質を昔の大人たち(?)の悪評が噴出して問題になっている。

案の定というかNHK-BS放送での内容は「ゆとり教育」に擁護的で、それはその制度発起の理由としての救済策とか「総合学習」の内容とその有益性を披露していて、相も変わらず日本国の衰退を招く方向性を同局が持っていることをあらためて確認した次第である。

日本国の相対的、絶対的な国力の減退・衰退がぬるま湯のようにしみじみと惹起させられているが、その具体的傾向の第1は人口や労働力の減少、その第2は教育内容の削減であった。
それも3割削減というのは「アリエヘン」というくらいひどい。
土日週休2日制もこれに含まれる。
また教育者の無駄な労働、多忙も大問題だ。
本来の仕事「教育」に専念できないからである。
各種研修会、研究発表、デスクワークの繁雑さなど子供との対面を主とする教育そのものの質を損なう要因が山のようにある。
これは医療介護業界など国が主導する分野においても同様で、医療介護の本質である病者・老者を看る、癒やす、介けることよりもその周辺の作業、即ち事務作業が3割とか4割とかあって、これに時々恒例的に行われる立ち入りの検査(行政のする)などは本業のスムーズな流れを阻害するだけでなく無用の仕事を増やし、働く人に負担をかけている。
行政の作った基準を守る為の定例的な仕事と思えるがこれらはもっと整理されるべきで、特に「教育現場」においてはそれこそ大胆な業務の削減をして、より教育者たちを本来の業務である教育に没頭してもらうべきと考える。

教育の充実の為にまず行うべきは教育内容の3割削減ではなく教育者である先生たちの業務の3割かそれ以上の削減ではないかと考えている。
そうしてゆとりを持って教育者の研修などを夏休み中などに泊りがけで楽しくセミナー形式で実施する。
家庭にしろ、会社にしろ、国家にしろ組織とか集団における教育の重要性については何度も口説口説しく述べてきたが、その価値においては少しも軽くなっておらず益々重大化していると思える。
それは文明文化や科学技術の進展にともなって本来増大していくべきもので、どう考えても省かれる類は少ない筈である。

また、ゆとり教育の最大の問題点は「競争」の排除であると思える。
運動会での並んで手をつないでゴールなんて一般社会ではあり得ない状況を学校で敢えてつくり上げるなんて信じ難い暴挙と思える。
世界中どんな社会も適正な競争が行われて進化発展していくもので、全員一緒横並びということはあり得ない。
それこそ個性無視で競争を厭う社会が経時的に衰退していくことは共産主義国の歴史的経済的な敗北を見れば明らかである。
元々、社会というものは競争原理によって発展している。
より良いサービス、より良い商品はこの原理が作用しなければ生じない。
スポーツの世界はこれがもっと露骨に、鮮明に現出する。
人々はその競争を見にくるのだ。
競輪・競馬・競艇などのギャンブルは言うに及ばず、オリンピック、世界選手権、ビジネス界・・・数限りないほど競争だらけの社会、世界を人間が生きていくのに「生きる力」を育むための「総合学習」や「競争を是としない」「週休2日」「3割削減」のゆとり教育などハッキリ言って有害無益だ。
あきらかに矛盾もしている。
社会とつながらない学校教育などない。
どんな意味があるのだ。
ゆとり教育の目的とされる「生きる力」も激しい競争により培われる。

生きていくために社会よりさらに競争をさせるべきではないのか。

スポーツの世界でも練習は本番より激しくキツイものだ。
ハードなのだ。
学校を社会人となるための準備期間と捉えれば有意有能の人間を作り上げる為に適正な鍛錬、競争は有益なものである。
それらを「落ちこぼれ」の為に否定するなどあり得ないと考えている。
また「落ちこぼれ」を否定的に見るのもいかにも近視眼的だ。
落ちこぼれ達の中にもそれなりのヒエラルキーか競争が存在する。
「落ちこぼれ」という自覚と共にそれにマッチした生き方を検索しているのだ。
「落ちこぼれ」救済という教育もあるし、どんな世界、組織、会社、社会でも落ちこぼれは存在するし彼らなりの世界を築いているのだ。
必要悪とまでは言わないがどんな教育の中で競争を減らしても生命の有様からして自然な競争が生じ、またそれに負ける人と勝つ人がいる。
これは「世の倣い」だ。
それらの人間や社会の自然な「働き」「流れ」を無視したゆとり教育など強い悪意を持った輩の亡国論の賜物にちがいない。

かつて世界一の教育水準を誇った日本の教育もシンガポール・韓国に遅れ、今や世界中でも先進国だけでなく中進国を含めて50~60位だそうである。

繰り返すが国力の中心的な要素である人口と教育の問題を「ミスターゆとり教育」寺脇研という官僚の思いつきで推進されたとするNHKの報道も信じ難い。
それはやはり日本国の衰退を担った第三国の悪辣な徒輩によって仕組まれた仕業と思える。
亡国的でない安倍政権になってようやく明確にゆとり教育に「NO」の判断が下されたようだ。
ヤレヤレ、ひとつの大きな不安が解消された。

いずれにしても教育に「ゆとり」などモッテノホカだ。
大人にも言える。
プロセス、過程において「ゆとり」や「楽ちん」というのは結構危険な状態で、気の利いた経営者ならこれを最も恐れる。
「危機感の無さ」
これはゆとりと同義語と考えていて、少年少女はピリピリとした緊張感の中にいて初めて「教育されている状態」と考えている。
リラックスして楽しいというのは、どちらかというと結果なのではないだろうか?

大谷翔平とかユーチューバーなる新種の職業の人の他、主にスポーツ・芸能の世界で活躍している「ゆとり世代」の人々の紹介があったが、そもそもスポーツ・芸能で生きる人に「ゆとり」などありよう筈もなく学校教育とは違う激しい「ゆとりのなさ」がある筈なのである。

ありがとうございました
M田朋玖



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