コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 女の一生2018.11.23

「女の一生」というタイトルのモーパッサンの小説がある。
他にも同名の小説が国内外にあったような気がするがこの項では関係ないので割愛する。
女性の人生を考える時に参考になる書物ではない。

さて男の人生と女の人生はかなり違う。
今はジェンダーフリーとかジェンダーニュートラルとかの言葉が世間に流通して、いかにも男女が同一の権利を有し同様の自由や行動や楽しみをその人生で享受し行使して良い事になっているように見える。
法律的に・・・。
特に先進国では・・・。

しかし現実にはまだまだ世界中のあらゆる国や地域で男女の区別、差別は振幅が大きい。
さらにそれらの地域では男女差別、女性を下位に見るという思想や習慣がまかり通っている印象がある。
それらの境遇にある女性の場合、誠にお気の毒である。

特にイスラム教国における女性の扱われ方は非人道的で理不尽であるようだ。
イスラム教の原理主義を奉じている国々、組織においてはさらに苛烈になる。
女性はすべてあの独特の黒い衣装を着せられて、髪の毛とか顔とかを含め女性の性徴を表現する身体の全てを公衆の面前では「隠す」ことになっている。これは男性にとっても不幸な状況で性的に女性を「見る」ことが出来ない。今は先進国でもセクハラとか痴漢とか言われて多くの女性が「見せている」のにあからさまに「見る」ことは出来ないし、論評することなどモッテノホカ、論外であるらしい。
やれやれヤヤコシイ時代になったものだ。昭和生まれの男には生きにくい。

それらのムスリムの国々では制限のいくらか甘い国においてですら、肌の露出では極端に狭められ、髪を隠す為の布切れ(ヒジャブ)とか、全身を覆い隠すアバヤとかとにかく女性について抑圧的、それも男性の性的な欲望を刺激する髪、肌、顔、四肢などの殆んどをシャットアウトするワケであるから逆に考えるとイスラム教の国々では女性を「性の対象」としか考えていない、少なくとも高位の宗教者や為政者の男性が多いと想像される。
イスラム国、通称ISの「ならず者達」が女性を性奴隷のように扱って少しも廉恥が無かったという点もイスラム教における性の抑圧というものの反動にその因があると思われる。
彼らの一連の集団的「異常行動」「犯罪的行動」が人間性を無視した異様な性的抑圧によって生じたように思える。

キリスト教や仏教にしろ世界中で一神教と呼ばれる宗教を任じている国々では人々の性的欲求を意図的に操作して民衆、国民を支配しようとしているように見える。
神様がたった一人なら愛する対象を女性などに散じてなるまいとでも考えておられるのだろうか。この問題はいつもどこかはぐらかされて誰もがその事を直視しない。
人間にとっての性欲というものの爆発的なエネルギー、それも男性のそれが人間の揉め事の大きな原因になっているというのは歴史の示しているのにだ。

多くの金銭問題も突き詰めるとそこ・・・性的問題・・・に集束した事件として数多く発見できる。
前置きが長くなったが「女の一生」を主に文化的に洗練された国々においてのモノをここで少し論じてみたい。

日本国の場合、仏教国とも言えるし神道国とも言えるが基本的にインド、ネパールと同様に多神教である為か性的な抑圧は殆んどないと言って良い。むしろそれを奨励している。

江戸時代の風俗などを書物でうかがい知ると公衆浴場が混浴であったり浮世絵とかの中にも枕絵とか春画、美人画などハッキリと現代風に言うと「エロ本」と呼べる代物も多かったりとそれらの観察では驚くほど精密な幾分誇張された男性器と女性器などが当時の艶めかしい装束と共にありありとリアルに描いてあって日本人の文化が性的に極めて開放的だったことをうかがい知ることできる。
またそれらはや「芸術性」という意味で海外でも評価が高いらしい。

これらの傾向は日本人が単一民族で島国であったという背景もあって醸成されたようだ。
人々は安心して性交渉のできる環境にいたということと、前述した文化的、宗教的な抑圧の無さにその因を求めることができると考えている。

それでも日本人の「女性」とヨーロッパやアメリカにおける「女性」には共通点も多く、それは一夫一婦制という制度だ。多くの一般庶民はその制度に伴った道徳という名の社会心理的な「檻」に閉じ込められている。
一部の富裕層や支配階級ではそれらの「檻」は当然ながら存在しない。

このような社会背景のために「結婚」「出産」という人生最大のイベントが女性の人生の平坦であるべき行路に大きく横たわっていて、どんな女性もそれらの事柄を無視して社会の荒波を生きることが難しいということになる。
勿論生物としての人間にとっても繁殖、つまり種族保存の本能が自然的に備わっていて、女性の存在と心を強く縛っている。

経験的にも結婚、出産に全く興味関心が無いという女性に遭遇することは滅多にない。
本人の好むと好まざるに関わらず社会や親族や地域社会、組織の有言無言の圧力がかかっており、その点では気の毒とは思えるが男性の場合よりも「独りで生きてゆく」ということがどこか「裏寂しく」見えてしまうのは仕方のないことだ。
実際は男性の独居の方が「痛ましい」のであるが、ひとつには「出産」という社会の要請と圧力があってそれに応えなかった女性をかつては「石女(うまずめ)」などと誠に非道な呼称をしていた時代があったが、最近では女性の生き方について相当に選択肢も増え自由になったと思われている。
けれども多くのフツーの人々の意識の中に「結婚する女性」と「非婚女性」の間に一時期「勝ち組」「負け組」という過激な表現もあったりして本当に女性は「結婚から自由」になった、解放されたのであろうかと考える。

個人的には「結婚」について女性は幼い時からキチンとしたコンセプト(するか、しないか)を持っておいた方が良いと思う。
昔の女の子は「大人になったらお嫁さん」男の子は「お父さんみたいになる」という定型的返答があったけれど今は、特に女性についてこの明瞭な取り組みが見えずに何となく人生の大切な時期を過ごしてしまい「婚期」を逃したという人々を男女共に時々見かける。
女性の結婚適齢期というものは16歳以上なら誰でもどんな年齢でもその「期」なのでなにも問題ないが出産や子供を欲する男性や親や一族があってヤヤコシイ。
男性にも女性にも「連れ子」がいる。
こういう場合に問題が一気に解決することがあるがそうは考えない人もおられてメンドクサイ。

「お嫁さん」「お母さん」になるのにも実のところ「運」というものが作用するがいくら努力しても実らないこともあり、それらの方面で何も結実せずに一生を終える女性もおられる。
それぞれの人生であるから何も申し上げるつもりはないが、先述した女性の定型的に「シアワセ」の創造獲得には、たとえば「女医さん」になるくらいの覚悟と取り組みが必要かも知れない。
中には女性の幸福、良きことのすべてを手に入れて優雅に生きておられる方もおられるがご本人がその幸福を味わっているかというと逆にこれで「当たり前」みたいに思って周囲や配偶者や自らの運の良さなどに何の感謝もせず不満ばかり述べて、時には「死にたい」などと平気で口にしたりする例もあり、世の中の道理とか本当に悲惨な人生というものがどんなものであるか知識や情報として「知らない」ということも或る意味大変な不幸であるかも知れない。
概して不平不満というものが或る種の「無知」によって起こっているのではないかと思える。
所謂、専業主婦と呼ばれるシアワセな人々に時々散見される。
実際にそれらは心理的な「牢獄」で真実は不幸なのかも知れない。

ありがとうございました
M田朋玖


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